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未来の会

私の海外留学見聞録55
〜理想の教授に出会い、教授の拠点へ留学〜

私の海外留学見聞録55〜理想の教授に出会い、教授の拠点へ留学〜

竹下 克志 (たけした・かつし)
公立学校共済組合 関東中央病院 病院長
留学先: 米国シンシナティ大学(1999年〜2000年)

私が医学部を卒業したのは約40年前の1987年です。新医師臨床研修制度が始まる遥か以前の話なので、当時の医学生は卒業と同時に専門科を選択し、医局へ入局していました。出身校である東京大学医学部整形外科に入局し、数カ月の麻酔科の研修を除いては、大学病院や関連病院で整形外科の診療や手術の研鑽を積んでいました。100人規模の医局員を抱える医局です。個々の医師に対する医局の指導が十分ではなかった面もありましたが、何よりも私自身が大学院や医学研究の道についての関心も薄く、趣味を楽しみながら、外科医の人生を謳歌していました。

94年、7年ぶりに大学病院へ戻りました。入局当時は就任されたばかりの故黒川高秀教授が教室をまとめ上げており、脊椎外科を志すことを決めた私には大きなカンフル剤となりました。大学での4年間の研究と臨床生活で得たものは、その後の私の人生の糧となっています。

脊椎外科でも側弯症を専門としていくこととなりましたが、そうした中、側弯症手術への応用を念頭に置いた内視鏡手術の動物実験デモンストレーションが行われることを耳にしたのです。97年当時、脊椎の内視鏡手術は日本で導入が始まったばかりで、私自身も腰椎変性疾患に対して試行錯誤していました。

実演のため米国から来日したのは、シンシナティ大学小児病院整形外科のAlvin H. Crawford教授でした。整形外科では膝関節での関節鏡手術はスタンダードなので、ほとんどの医師は経験がありますが、脊椎への導入は新しい領域です。私は将来を感じさせる内視鏡手技に感銘を受け、次の夏休みを使って、Crawford教授の本拠地であるシンシナティ小児病院を見学することにしました。

翌年、私自身は佐久市立国保浅間総合病院へ異動となり、結婚したばかりの家内とともに長野県に移ったのでした。そこに東大にて新しく教授になられた中村耕三先生から、学位論文にふさわしい研究を行うようにと連絡を頂いたのです。思案の末、予定通りに渡米し、シンシナティ訪問時に思い切って研究留学の希望を直接伝えたところ、快く了承していただき渡米することとなりました。その際「お給料は出せないよ」とのコメントもありました。

農業の地オハイオで頸椎の研究

留学先であるシンシナティは米国中西部のオハイオ州にあります。オハイオといえばかつて米国の選挙動向を左右した州として有名ですが、米国有数の農業州で牛との関係も深く、多くの牧場や農場があります。

初めての留学ということで、99年7月にまず私が単独でアパートに入り、下準備を整えた1カ月後に妻と生後1カ月の長男がやってきました。ライセンスを持たない米国の留学生活では臨床業務に従事しなかったので、時間は豊富にありました。手術や外来などを見学しても17時には終わります。アパートといっても噴水のある池を備え、カナダガンの群れが敷地を歩くのどかな郊外に位置し、東京の慌ただしい日常からかけ離れた世界を家族で楽しむことができました。

▲噴水のある池を備えたアパート

日本から留学することは当時から珍しくはなく、私より若い世代の先生方が小さな子供とともに家族で留学していました。海外で孤立感を覚えがちな生活では、日本人と会うと同じ苦労を分かち合えて解決しやすくなります。時折行われる日本人会では子供同士、医師同士、夫人同士が日本そしてシンシナティの生活や仕事について語り合い、楽しく集っていました。

その中でも慶應義塾大学脳外科から来られた黒川龍先生は私と専門も近い方でした。そのため帰国後、私が自治医科大学に赴任した際、黒川先生が獨協医科大学脳神経外科准教授として同じ栃木県で働いていることを知ったときは驚きました。私が担当した学会では副会長として参加いただいたりしていました。

当初予定していた研究テーマは側弯症のバイオメカニクスでしたが、想定したテーマは既に解明されていることが判明し、次善の案として考えていた頚椎の研究に取り組むことにしました。

日本の脊椎外科は頚椎の後ろ側からの手術、すなわち後方手術が世界的に有名である一方で、術後の変形が合併症として知られています。日本の脊椎外科医は、この問題を最小限に留めるように注力してきました。その中で、私は靱帯組織が頚椎の安定性にどの程度寄与しているかを証明することをテーマとしました。

実験の計画・準備・測定などで実際に協力してくれたのは、工学部畑の2人でした。1人は工学博士であり、また2児の母親でもありました。もともとはシンシナティ大学で膝関節のバイオメカニクスの仕事をしていた方です。もう1人は工学部の学生で、この研究に協力してくれることになりました。

▲定期的に行われた日本人会

99年は研究テーマと実験方法を絞っていきながら、ご遺体の入手・標本採取の準備を行っていきました。秋には工学部でのバイオメカニクス講座を大学生の中に交じり受講し、冬になって基礎資料として実験室での動態撮影を開始しました。そこから標本を固定するのに必要な器具の設計に入ったのですが、固定器具の設計は困難を極めました。車のタイヤは同じ基点を中心に回りますが、脊椎では回転の中心を変えつつ移動するという、複雑極まりない運動を行うためです。1回目の単純なデザインはすぐに問題が発覚。頚椎では特に頭に近いレベルで回転が大きくなるために生じた問題でした。新規の追加器具の設計・発注・完成と実験のプロトコル作りで数カ月経過し、2回目のデザインの器具が完成したのが7月でした。

2000年の8月に入ってこつこつ集めてきた14個の標本で測定を開始しました。期待通り、靱帯を切除すると多くの標本で可動性が増加しました。靱帯を温存することは力学的な観点から意味がある、として研究成果が英文誌に掲載され、博士論文としても認められることとなりました。

▲2005年の学会にて再会した、Crawford先生(左)と筆者(中央)
今でも鮮明に記憶している恩師の姿

Crawford先生が回診やカンファレンスで教室をまとめリードしていく姿は圧倒的で、私にとって理想的な教授像として今も強く記憶に残っています。医師、看護師を始め仕事仲間や患者、その家族には常に笑顔とユーモアを欠かさず、海外の留学生との交流にも力を注いでいました。

先生は米国小児整形外科および脊柱変形外科を代表する黒人整形外科医の1人であり、国際側弯症学会(SRS)初のアフリカ系米国人会長、北米小児整形外科学会(POSNA)初のアフリカ系米国人会員、米国整形外科学会(AAOS)のDiversity Awardを受賞するなど、多くの功績を残されています。今春まで勤めていた自治医科大学の学生講義では、メンターの1人として紹介していました。

ちなみに、せっかくの留学生活だったので、しばしば近隣にドライブ旅行に出かけました。研究が順調に進んだこともあり、10月にはワシントンDCに向かったのち、東海岸を北上し、ボストンから紅葉で有名なホワイトマウンテンを訪れ、最後にグランドキャニオンを訪れました。

研究そのものはもちろんのこと、海外での生活は私自身だけでなく家族にとってもかけがえのない経験となりました。この留学は、その後の私の医師人生と人生観を支える大きな転機であったと、今も感じています。

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