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未来の会

名医の履歴書 〜医療人の半生〜

名医の履歴書 〜医療人の半生〜
第1回 日本医師会会長 横倉 義武
祖父と父が結んだ日医への歩み
尾道号外

横倉義武 日本医師会会長 祖父英次郎は加賀藩の下級武士の子として石川県加賀の大聖寺に生まれた。横倉家の菩提寺は今もここにある。幼少の頃より、一本気な性格だったそうだ。

 英次郎は東京帝国大学工学部鉱山学科を卒業し、国策を推進する筑豊炭田の開発会社に勤めた。昭和初期に入ると、「これからは子供教育が重要だ」と博多に予備校を立ち上げ、自ら理事長に就任した。その後、福岡県の教育界に参加。祖父が携わった教育界の仕事を、父弘吉も継承することになった。

 弘吉は九州大学医学部を卒業し、海軍の軍医となった。疎開先の博多へ子供らの顔を見に出掛けていたが、疎開先の村長は弘吉が医師と知ると、無医村の窮状を強く訴えた。

 弘吉は戦後3年間だけの約束で診療所を開設した。これがヨコクラ病院の始まりだった。その後、診療所は弘吉と母恵子の患者思いの対応で大人気となった。

 恵子は治療費を払えない患者のために、自らの着物を売って薬代を立て替えた。弘吉はまさに赤ひげ先生だった。

 今の横倉の患者に寄り添おうとする姿勢は、両親の背中を見て学んだに違いない。

 その後、弘吉は福岡県教育委員会の委員長職に就くことになり、ヨコクラ病院を継ぐ人間が必要になった。祖父と父が携わった福岡県の教育界が、横倉を日本医師会に関わらせるきっかけとなるのは、横倉が壮年期を迎える頃だった。

スポーツ三昧の子供時代

 横倉は腕白少年だった。勉強などそっちのけで、近所の仲間と日が暮れるまで遊ぶ日々だった。当時、子供に大人気だった西鉄ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)の選手を夢見て野原でボールを追い掛けた。

 その頃、後に人生の恩人の一人になる音成彦始郎と出会う。当時は気付かなかったが、野外教育家として著名な音成の指導を受ける幸運に恵まれた。地域の子供会の仲間たちと登山に出掛け、ハイキングの楽しみも知った。

 運動神経抜群の横倉は中学進学と同時にスキーを始め、白馬や八方尾根などを滑りまくった。音成の指導で腕前を上げ、福岡県で開催の県体に音成チームの一員として出場し、見事優勝を果たす。結婚後も、3人の子供を連れ、志賀高原やニセコなど全国のスキー場を制覇していった。横倉は今も、白い雪の上を風を切りながら滑る快感は最高だと話す。

 中学に進んでも放課後は仲間とスポーツに明け暮れたが学業は秀逸だった。県下一の進学校である福岡県立修猷館高校にすんなりと合格。周囲を驚かせた。

 高校に進学しても横倉のスポーツ三昧は変わらなかった。高校でラグビーと出会い、3年間の日々は楕円のボールを追い掛ける日々となった。同時に生涯の友を作ることもできた。衆議院議員・原田義昭もその一人だ。

 兄は既に医学部に入っていたものの、横倉自身は自分の進路については深く考えていなかった。しかし、高校3年の時に盲腸を患い、叔父の手術を受けたことが医学を志す動機となった。

 「やはり医学部に行くか」

 高校3年の夏までラグビー漬けの日々で、受験勉強は何一つしていなかったが、秋から猛勉強を開始。そのお陰で浪人をする事なく久留米大学医学部に入学を果たす。親はひとまずほっとした。

 医学部に入学しても迷うことなくラグビー部に入部した。ラグビーは横倉にとって青春そのものだった。当時、新日鉄(現・新日鐵住金)八幡製鉄所のラグビー部は日本の一、二を争う強豪であり、ラグビーは地元の少年たちの憧れの的だった。

 医学部のラグビー部とはいえ練習は厳しく、昔の運動部そのままの根性論が幅を利かせる世界だった。子供の頃から文武両道、スポーツ何でもござれの横倉のポジションはバックスで、センターからフルバックまで任された。

 6年間のラグビー活動は有意義だった。ラグビー部顧問の脇坂順一消化器外科教授の魅力ある指導も夢中にさせる理由だった。脇坂は生涯の恩師の一人で、アルベルト・シュヴァイツァーに心酔するなど、博愛主義者として学生の指導に当たっていた。思い起こせば、医師の在り方を学べたのも脇坂のおかげだといえる。脇坂との交流は、2003年に彼が亡くなるまで続いた。

「不惑」の40歳に人生の転機

 昭和44年に医学部を卒業すると、直ちに久留米大学外科に入局。心臓血管外科医として働き始めた。心臓血管外科と肝胆膵外科の両方を学んだが、卒業後の進路は迷った挙句、脇坂の医局ではなく古賀道弘教授の医局を選び、心臓血管外科医となった。

 古賀は旧制高校時代に剣道の天覧試合に出場した貴重な経験を持つ医師で、古賀からは医療に取り組む姿勢を学ぶことができた。94歳の今でも健在で、横倉は盆暮れの年二度の挨拶を欠かさない。医局時代の横倉は、真綿が水を吸うように知識を吸収していった。仕事はハードだったが、心臓外科医としてのやりがいがあった。

 そんな時、西ドイツからの留学話があり、昭和52年、西ドイツのミュンスター大学教育病院デトモルト病院外科へ向かった。

 2年間の留学は外科医としての将来に自信を与えてくれた。昭和54年に帰国し、久留米大学医学部の講師として医療現場の先頭になって働いた。

 そんな時、突然の転機が訪れた。ヨコクラ病院院長の父弘吉が福岡県教育委員会委員長になるという。ついては横倉にヨコクラ病院を引き継いでほしいと両親からの強い要請だった。外科医としてのキャリアを伸ばしたいという思いは強くあったが、父の病院を引き継ぐ以外の選択肢はなかった。

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