SHUCHU PUBLISHING

病院経営者のための会員制情報紙/集中出版株式会社

未来の会

第85回 医師が患者になって見えた事 冬の朝みぞおちの痛みで目覚める

第85回 医師が患者になって見えた事 冬の朝みぞおちの痛みで目覚める

医療法人社団亀戸畠山クリニック(東京都江東区)
院長
畠山 卓弥/㊤

畠山 卓弥(はたけやま・たくや)1957年宮城県生まれ。84年東京大学医学部卒業、同第一外科入局。日立総合病院、三楽病院、清湘会記念病院などを経て、2017年から現職。

2017年11月、病院勤めに終止符を打ち、長年血管外科医として積み上げた技術を活かして、クリニックを立ち上げた。20年明けに始まったコロナ禍から2年後、64歳の畠山に、早朝からみぞおちの不快な痛みが襲った。胃腸薬を服用したが、収まる兆しはない。大病の予兆だった。

精神科医志望から血管外科医になる

畠山は1957年、宮城県石巻市に生まれた。きょうだいはいない。父の実家は稲作を営み、祖父の代には蚕の卵の生産も手掛け、一時羽振りが良かった。養蚕業が廃れると普通の農家に戻った。父は、太平洋戦争から復員すると家業を手伝い、畠山が生まれた頃は小学校の事務職に就いていた。

堅実な暮らしで、両親の愛を一身に受けて育った。理数系を中心に勉強は得意で、卓球にも打ち込んだ。中学時代の畠山はとことん勉強に励んだが、気遣う両親から、やり過ぎないよう諭された。地元の進学校、県立石巻高等学校にトップで入学した。

子ども時代、父親に「外科医が向いてるかもしれない」と言われたことが、心の隅にあった。父方に東北大学を出た医師がおり、母方にも医師がいた。海や野山に恵まれ、小動物が好きで、生命科学に関心があった。自我が芽生えるにつれ、精神世界に興味を持った。受験勉強で国語の問題に打ち込むうち、「哲学的な世界は面白い、精神科医を目指そう」と決めた。全国から精鋭が集う東京大学一本に絞った。

現役時代は学力が伸びず、受験を断念した。両親は、東京の予備校に送り出してくれた。模擬試験で合格圏を勝ち得ると、魔が差した。下宿仲間と麻雀にふけり、その年も受験に失敗した。仲間も全滅で、お互いのためと再会を誓って、郷里に戻った。翌年は自宅から図書館に通った。本家の叔父に諭されて尻に火が付き、私学数校の合格後に東大受験に臨み、3年目、2度目の挑戦で入学を果たした。

医学部3年生になって精神科の授業が始まった。精神科医になると、自分が心を病んでしまいそうだと感じた。外科の教授は温厚で、両親のように包容力がありそうだった。84年に卒業すると、母校の第1外科に入局、同期は9人いた。大らかな時代だが、研修医の過重労働は常態化していた。仕事を終えた夜11時から明け方まで飲み交わし、病院に戻り布団に潜った。当時の外科では、患者から心付けでウイスキーが贈られ、研修医にも回ってきた。酒に強くない畠山は顔を赤らめ、飲酒で体調を崩すこともあった。

85年から日立総合病院(茨城県日立市)に派遣され、幅広く執刀経験を積んだ。付き合いでゴルフを始め、毎週コースに誘われた。週に1本ウイスキーを空ける生活で、空腹時に胃痛を覚えた。潰瘍だろうと用心し、少し酒量を控えることにした。

職場の健康診断は毎年受けていた。30歳の時、思わぬ異常値が出た。総コレステロール値が300mg/dLを超えていた。コレステロールは人体に必要な脂質だ。何ら自覚症状もなく、そう深く受け止めなかった。

家族性高コレステロール血症と頚部動脈瘤

3年して東大病院に戻ると、大腸肛門、血管、肝胆膵、胃食道、乳腺内分泌……など、所属グループを決めなくてはならなかった。大腸グループに行くつもりだったが、血管外科の志望者がいないからと勧誘された。「人生を乗り切るスキルが身につくし、どこに行っても楽しめばいい」。 

血管外科を専門に据え、95年から三楽病院(東京都千代田区)に勤務した。健診のたびにコレステロールの異常値を指摘され、40歳を過ぎた頃に同僚の内科医に相談した。アキレス腱を触って肥厚を確認すると、身内にコレステロールが高い人がいないかを尋ねられた。実家の母も高値で、厳格な食事療法をしていた。それを告げると、「家族性高コレステロール血症」と診断された。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)が普及する前で、ベザトールを処方された。

飲み始めて数日で腹筋が痛み出した。副作用として、横紋筋融解症が知られており、怖くなった畠山は服薬を中止した。たばこをやめて10年以上になり、飲酒量も格段に減っている。毎週のゴルフや練習も続けている。「何より血圧や血糖値は正常だし、生活習慣で摂生に努めればいい」。

99年から2年間、米国ニュージャージー州立医科歯科大学に留学した。良いボスに恵まれ、満足のいく研究成果も修めることができた。

帰国直後から、故郷・石巻に暮らす両親の衰えが目立ってきた。両親の元に足を運ばなくてはならないという理由で、東大の助手を辞した。多忙な外科系の病院に比べ比較的時間に余裕がある病院を探し、腎臓病を専門に一般診療も行う清湘会記念病院(東京都江東区)に就職した。血管外科の診療や人工透析用のシャント手術などで、専門性を発揮することができた。

2001年、母がくも膜下出血で亡くなった。母のきょうだいは、母も含め5人のうち3人が動脈瘤破裂で死亡している。遺伝的素因が大きいだろうと、畠山も脳ドックを受けると、頸動脈に瘤が見つかった。予防的手術が難しい部位で、血栓で大事に至りかねないと、バイアスピリンの服用を始めた。石巻に1人残された父は都内の自宅に呼び寄せたが、その父も03年に亡くなった。

自分の健康を気遣うようになり、コレステロール低下薬のスタチンも服用し始めた。母は大腸ポリープができやすい体質だったため、自身でも50歳を過ぎからは、大腸内視鏡検査も定期的に受けていた。

ただならぬ痛みに感じた異変

清湘会記念病院で院長となり、還暦が近づいていた。やり残したことを自問自答した末、「自分の専門を自分のペースで提供できる場所を作りたい」と、17年11月にクリニックを開業した。当初、血管外科と消化器内視鏡検査を2本柱に掲げ、内科診療も行った。透析治療を行う施設からの紹介でシャント管理を行い、順調に患者が増えた。新型コロナウイルス感染症の流行で、内視鏡検査は中断したが、血管外科は引き続き多忙だった。

ゴルフは密にならない屋外スポーツだということで、コロナ禍でも続けていた。21年1月10日日曜日は、千葉県成田市のゴルフコースを回る予定だった。早朝3時、みぞおちのズキズキとした痛みで、目が覚めた。初めての経験だった。

金曜の晩から少し食べ過ぎたかと、Hブロッカーを飲んだ。ストレスに弱く胃腸が荒れることもあったが、大概は胃腸薬で収まった。その朝は再度布団に横たわったが、痛みは消えなかった。車を運転し、医師会のゴルフ仲間を迎えに行かなくてはならず、朝5時に家を出た。感染予防で窓は開け放ったまま、成田まで1時間の道のりが倍にも感じ、会話も最小限だった。何とかゴルフ場に辿り着くと、「体の芯からの痛みが続いて……」と自分はゴルフをせず、同じ道のりを引き返した。

帰路もうずくような胃の痛みは持続し、途中3カ所のサービスエリアで小休止を挟んだ。「ただならぬことが自分の身に起きている」。自宅には戻らず、クリニックに直行した。(敬称略)

LEAVE A REPLY

*
*
* (公開されません)

Return Top