
砂川 賢二 (すながわ・けんじ)
九州大学 名誉教授/一般社団法人循環制御システム研究機構 理事
留学先: 米国ジョンズ・ホプキンス大学(1978年〜83年)
1978年、私は妻と2人の幼い子供を伴い、米国へ渡った。行き先はメリーランド州ボルティモア。20代だった私にとって、初めての海外生活だった。
期待もあった。不安もあった。しかし今振り返れば、それ以上に私たちは若かった。若さゆえの無鉄砲さが、海を渡る決心をさせたのだと思う。
当時のボルティモアは、日本で思い描いていた「豊かなアメリカ」とはほど遠かった。冬の空は灰色に沈み、チェサピーク湾から吹く風は骨身に染みた。治安も決して良いとは言えない。空港から市街地へと向かう車窓を眺めながら、本当に家族4人でここで暮らしていけるのだろうか、と胸の奥に重いものを感じていた。
ようやく辿り着いた小さなタウンハウスには、まだ生活の匂いがなかった。段ボール箱を囲んで腰を下ろし、見知らぬ街を眺めている私の横で、子供たちは新しい家を探検するようにはしゃいでいた。その歓声に救われたのは、むしろ私の方だった。
父は開業医だった。私の留学に積極的ではなかった。敗戦を経験した世代にとって、かつての敵国に息子が医学を学びに行くことには、理屈を超えた複雑な思いがあったのだろう。
それでも父は最後まで反対はしなかった。これからの時代、日本が米国から学ばざるを得ないことも理解していたのだと思う。その無言の許しに、私は支えられていた。
そんな不安を抱えながらの最初の週だったが、その気持ちはジョンズ・ホプキンス大学の生体医工学研究室に足を踏み入れた瞬間に吹き飛んだ。研究室が、あまりにも面白かったのである。
そこは既製品の測定機器よりも、自分たちで作った装置で溢れていた。誰かが半田ごてを握り、誰かが回路を組み、誰かが実験装置を改良している。必要なものはまず自分で作る。それが研究室の流儀だったのである。
私は少年の頃から電子工作や機械工作が好きだった。その文化に強く惹かれた。他人が作った装置を見ていると、その人が何を考え、何に悩み、何を解決しようとしていたのかが伝わってくる。
私は研究室に残された数々の装置から、多くの先人たちの考え方を学んだ。論文からだけでは学び得ない貴重な経験だった。

日本人上司から静かに告げられた一言
渡米最初の日のことを、今でも覚えている。
私の直属の上司は、現地で教授として活躍されていた佐川喜一先生だった。研究室を案内していただいた後、先生は静かにこう言われた。
「私は君に英語は教えられるかもしれない。しかし、それ以外は教えられない」
少し意外だった。世界的な研究室へ来たのだから、私は当然のように研究について多くを学べるものと思っていたからである。
そして先生は、その日から徹底して日本語を話されなかった。日本人同士で2人きりになっても同じだった。帰国の日まで、それは変わらなかった。当時は、単に早く英語に慣れさせるための配慮なのだろうと思っていた。
先生の机の前には、1枚の短冊が掛かっていた。恩師・西丸和義先生の揮毫によるものである。
「自らの道を歩む」
若い頃の私は、その言葉について深く考えることはなかった。
やがて私の周りには、私より数年若い院生たちが集まるようになった。私たちは、毎日のように議論していた。
心機能とは何か。生命現象を物理や数学でどこまで理解できるのか。答えのない問いを前に、皆が本気だった。データを囲み、ホワイトボードを埋め尽くし、ときには互いの考えを真っ向から否定し合った。それでも翌日になれば、また同じ机を囲んでいた。
思い起こせば、私たちは驚くほど無謀だった。複雑な生命現象の本質に数学で迫れると、本気で信じていたのである。
だがホプキンスという場所は、その無謀さを笑わなかった。むしろ「やってみろ」と背中を押してくれた。あの頃は、それで十分だった。
研究室を出ても議論は続いた。ボルティモアの小さなタウンハウスに仲間たちが集まり、安い酒を酌み交わしながら夜遅くまで語り合った。
研究だけではない。社会のこと、人生のこと、未来のこと。私たちは、自分たちの研究で世界を少し変えられると本気で信じていた。
もちろん生活は研究だけではなかった。子供たちは現地の学校に通い始め、週末には家族でよく出かけた。
ある日、「Memorial Park」という看板を見つけた。公園だと思って車を乗り入れたところ、そこは広大な墓地だった。家族4人しばらく無言になった。やがて妻が吹き出し、子供たちも笑い始めた。今でも我が家の笑い話である。
振り返ってみれば、家族の中で最も早く米国の社会に適応したのは妻だったかもしれない。近所の母親たちと交流し、近隣の子供たちの送り迎えをまとめ、小学校のボランティアにも参加した。私が研究室にいる間に、彼女は地域社会の中へと自然に溶け込んでいたのだった。
また、米国社会の光と影も学んだ。研究者たちの英語は理解できても、夕方にやって来る清掃員たちの英語はほとんど聞き取れなかった。
そのことを同僚に話すと、「彼らの英語を無理に理解する必要はないよ」と言われた。
悪意はなかった。しかし、その一言は長く私の胸に残った。「自由の国アメリカ」にも、見えにくい境界線があるということを知った。

あの時の言動の意味が今理解できるように
当時の私たちは、50年後の自分など想像していなかった。来週の実験が成功するか。新しい考え方を証明できるか。頭の中はそんなことで一杯だった。先のことはその時には誰も分からない。私にも分からなかった。
父がなぜ最後まで反対しなかったのか。佐川先生がなぜ「英語以外は教えられない」と言ったのか。そして、なぜあの短冊をいつも机の前に掛けていたのか。その意味を理解するには、ずいぶん長い時間が必要だった。
あの言葉と短冊は、きっと同じことを語っていたのだと思う。
気がつけば、あれから半世紀近い歳月が流れていた。当時の仲間の1人は、今では私が技術コンサルタントを務める米国企業の上司になっている。若い頃には想像もしなかった巡り合わせである。
それでも毎週のオンライン会議で顔を合わせるたびに思う。私たちは今も、あのタウンハウスの夜の続きを話しているのではないか、と。テーマは変わった。技術も変わった。だが問い続けるということだけは変わらなかった。
若い頃、私は日本で1つの人生を生きていた。さらにボルティモアへ渡ったことで、もう1つの人生が始まった。
私はなお、あの時に始まった問いの続きを生きている。だから、あの留学はまだ終わっていない。



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