
吉住 朋晴 (よしずみ・ともはる)
九州大学消化器・総合外科学 教授
留学先: 米国マウントサイナイ病院(2000年〜02年)
私は1992年に九州大学医学部を卒業後、当時の第2外科に入局しました。肝移植に関する研究で学位を取得した後、2000年から約2年間、米国ニューヨーク・マンハッタンにあるマウントサイナイ病院へ留学し、主として肝移植のドナー手術およびレシピエント手術に従事しました。当時、米国における肝移植はすでに日常診療として完全に定着しており、日本では経験できないほど多くの症例に携わる機会に恵まれました。
マンハッタンから橋を渡ったニュージャージー州の小さな空港からチャーター機に乗り、遠くはテキサス州やサウスカロライナ州など全米各地に臓器摘出に向かったことを懐かしく思い出します。摘出チームには航空便の場合、帰路の機内で食事が用意される一方、車での移動の際には何も支給されず、空腹に耐えながら移動したこともありました。ある時、激しい乱気流の中を飛行するプロペラ機が急降下し、「このまま墜落するのではないか」と本気で恐怖を感じたことがあります。病院到着後、一緒に搭乗していた米国人フェローが上司に向かって “We were going to die.” と訴えていたのを聞き、英語の “be going to” の過去形の使い方を、身をもって学びました。その後、チャーター機はプロペラ機からジェット機へと変更されました。
また、現在の日本では外科医不足への対応としてチーム医療の推進やNurse Practitioner(NP)、Physician Assistant(PA)の導入が議論されていますが、マウントサイナイ病院ではすでに四半世紀前から、ドナー及び肝胆膵手術チーム、レシピエントチーム、病棟管理チームが週単位で役割を交代する体制が確立されていました。PAを含めた効率的な病棟運営も行われており、帰国後は「いつか日本にも導入できれば」と考えていました。しかし当時の私には組織を変革する力はなく、もどかしさを感じていたことを思い出します。現在、そのような議論が現実味を帯びていることに、隔世の感を覚えます。
帰国から四半世紀近くが過ぎ、当時の記憶も次第に薄れつつあります。しかし私たちの医局では、留学者が同門会誌に寄稿する慣例があり、その際に書いた文章が残っていました。今回、その記録を基に、留学生活を振り返ってみます。
マンハッタンでテロを目の当たりにする
忘れられないのは、01年9月11日の出来事です。その日は雲1つない快晴の朝でした。第一報は日本からの電話でした。「ワールドトレードセンターが燃えている」。急いでテレビをつけると、確かに高層ビルから煙が上がっています。当初は航空機事故との報道でしたが、テレビを見続けるうちに、もう1機の航空機がビルに突入する瞬間を目撃しました。
その時の私は、マンハッタンのアパートの15階に住んでいました。窓から南を見ると、ワールドトレードセンターの方向には巨大な黒煙が立ち上り、街中には絶え間なくサイレンが鳴り響いていました。さらにペンタゴンへの攻撃の報道も流れ、日本に連絡を取ろうとしても電話は全くつながりません。ようやくE-mailで無事を伝えることができましたが、その間に2つのタワーは崩壊しました。
すぐに子どもを幼稚園に迎えに行きましたが、日本人の子どもだけが数名残されていたことを今でも覚えています。保護者が状況を十分に把握できていなかったためでしょうが、その光景に日本人の危機管理意識の甘さを感じました。
その後、病院業務が再開され、マンハッタン内の救急病院に臓器の摘出に赴いた際には、救急外来の壁一面に行方不明者の写真が貼られている光景を目にしました。さらに炭疽菌騒動も発生し、しばらくニューヨーク全体が不安と緊張に包まれていました。

同時多発テロの背景については様々な議論がありますが、宗教や価値観の対立が大きな要因であったことは間違いないでしょう。当時の米国では「あなたの宗教は何か」と尋ねられることが珍しくありませんでした。私は当初、深く考えずに “I am Buddhist.” と答えていました。しかし、日本人の生活を振り返ると、正月には神社へ初詣に行き、困った時には神頼みをし、先祖供養では寺を訪れます。そこで私は、「私は八百万の神を信じています」と答えるようになりました。現在では宗教について直接尋ねられる機会は減ったかもしれません。しかし海外で生活すると、自分自身の価値観や文化的背景について説明を求められる場面は少なくありません。留学を志す若い先生方には、自分なりの答えを持っておくことをお勧めします。
スポーツ界でも、忘れ難い出来事がありました。01年、シアトルマリナーズに入団したイチロー選手がメジャーリーグを席巻し、日本人初のアメリカンリーグMVPを獲得しました。現在では大谷翔平選手がMVPや本塁打王を争うなど、日本人選手が活躍する姿が当たり前になりましたが、当時はまさに歴史的快挙であり、米国に住む日本人として大きな誇りを感じました。一方、当時私が住んでいたニューヨークを本拠地とするメッツには、新庄剛志選手が入団しました。日本での高額年俸を断り、メジャー最低年俸保証で挑戦した姿勢は多くの米国人には理解し難かったようです。彼らにとって年俸は極めて分かりやすい評価指標であり、ステータスそのものでした(今もそうでしょう)。しかし、新庄選手は年俸ではなく、自らの実力を世界最高の舞台で試すことを選びました。その姿勢は強く印象に残っています。
26年はサッカーワールドカップが米国・メキシコ・カナダの共催で開催される年です。この文章が掲載される頃には大会は終了し結果も分かっているとは思いますが、日本代表の健闘を祈っています。02年の日韓大会では、日本国内でのチケット入手は極めて困難だったと聞いています。一方、当時米国在住だった私は比較的容易にチケットを購入することができ、留学から帰国後に試合観戦を楽しみました。ただ、地元福岡開催の他国同士の試合ではなく日本代表戦のチケットを購入しておけばよかったと、今でも少し後悔しています。
常に準備万全とし、訪れた機会は逃さない
米国は「チャンスの国」と言われます。私自身、留学中には努力してもなかなか成果に結びつかず、悔しい思いをすることもありました。しかし、「チャンスが来た時には必ず掴む」という気持ちが自分を支えてくれたように思います。チャンスは気づかないうちに目の前を通り過ぎていきます。それは米国でも日本でも同じです。常に準備を怠らず、全力を尽くし、訪れた機会を逃さないこと。その重要性こそが、私が留学生活を通じて学んだ最大の教訓でした。
現在、私たちの医局からは9名が主に米国に留学しています。以前と比べると、若手医師の留学希望者はやや減少しているように感じます。確かに円安や物価高騰により、海外留学のハードルは高くなりました。しかし、異文化の中で生活し、自らの価値観を見つめ直し、世界中の仲間との人脈を築く経験は、日本国内だけでは得ることができません。
振り返れば、私自身も留学中には数多くの苦労を経験しました。とはいえ、その経験があったからこそ現在の自分があると確信しています。若い先生方には、ぜひ勇気を持って海外に飛び出し、新たな世界に挑戦してほしいと思います。




LEAVE A REPLY