
高齢化に伴う認知症患者の増加や、若年層の精神疾患、自殺等の問題が深刻さを増す中、日本の精神・神経医療は大きな転換点を迎えている。全ゲノム解析技術の飛躍的な進歩により、これ迄診断が難しかった神経難病等に光が差す反面、生命の根幹に関わる倫理的課題も浮上した。こうした中、2023年のゲノム医療推進法の施行を経て、26年3月30日に日本ゲノム医療推進機構(GeMJ)が設立され、初代機構長に水澤英洋氏が就任した。「脳と心の健康」を提唱してきた同氏に、ゲノム医療と今後の医療体制を聞いた。
——脳神経内科を専門に選ばれた原点をお聞かせ下さい。
水澤 理由は幾つか有ります。1つは、東京大学教養学部時代のセミナーで「がんは遺伝子の病気である」と学んだ事です。増殖する性質を持つがん細胞は、当時でも手術で取り除いた組織を研究材料にする事が出来、比較的研究もし易い。一方、脳や脊髄等の神経細胞の病気は、細胞構造や機能が失われて死滅していく為、培養もし難く、病態の解明が非常に難しい。当時は、がんは10年単位で解明が進むかもしれないが、神経変性の場合は100年単位かもしれないと思う程でした。分からない事が多く、難しいからこそ面白い。そこに興味を持ったのが一番大きな理由です。医学部卒業後は、2年間の臨床研修で半年ずつ4つの研修先を回り、最終的に神経内科を選択しました。又、私は新潟県の農家の跡取りで、何れ地元に戻らなければならないという思いも有りました。新潟県は脳卒中が多かったので、「脳の病気を診る医師になる」と言えば、親にも説明し易かった。そうした事情も後押しになったと思います。
「脳と心の健康」を生涯を通じて捉える
——「脳と心の健康」を重視してこられた背景とは。又、何故それが重要なのでしょう。
水澤 東京医科歯科大学に在任中、文部科学省の「脳科学研究戦略推進プログラム」の「生涯に亘る脳の健康(Lifelong Brain Health)」を担当しました。現在、WHOや会員数4万人程のアメリカ神経学会でも「Brain Health」が重要なテーマになっています。心身共に健やかな生活を送る上で、脳と心の健康は非常に重要です。脳は、身体機能だけでなく、心の拠り所でもあります。その意味でも、脳に着目した医療や研究を生涯に亘って考える事が重要です。高齢者では認知症、子供や若者では発達障害、不登校、引きこもり等、年代によって異なる課題が有ります。特に日本では、10〜44歳の若年層の自殺が深刻な社会問題となっています。だからこそ、特定の年代だけではなく、人生を通じて脳の健康を考える視点が重要なのです。認知症は病態メカニズムの解明が進みつつありますが、うつ病や統合失調症等の精神疾患については、尚不明な点が多く残されています。これらは客観的なバイオマーカーが乏しく、採血して診断する事も出来ず、医師の判断によって大きな差が出る領域です。例えば、幼少期の母子分離によって過食や肥満、うつ病になり易くなり、その先で認知症のリスクにも繋がるという疫学研究が有ります。今は「ライフコース」という考え方が様々な研究で重視されていますが、その中でも心、即ち脳に注目する研究は非常に重要です。高齢期だけを切り取るのではなく、若い時からの環境や心身の変化を含め、生涯を通じて脳の健康を捉えていく必要が有ります。
——認知症や精神疾患を巡る日本の医療体制には、どの様な課題が有りますか。
水澤 「脳と心の健康」を考える上では、個々の疾患だけではなく、それを支える医療提供体制にも目を向ける必要が有ります。日本では病院に長く入院する形が未だに残っています。精神科病床が非常に多い一方、急性期を過ぎた患者さんを地域で受け止める場所が十分ではなく、一旦入院すると退院が難しくなるケースも有ります。イタリアでは、精神科病院を廃止し、地域精神保健サービスを中心とする仕組みが進んでいると聞きます。又、司法精神医療の対象となった患者に対しても、500日ほど掛けて丁寧に治療する事で、1人で暮らせる段階まで社会復帰を支援している例が有ります。その為には、医療機関だけではなく、地域社会が患者さんを受け入れる環境を作る必要が有ります。高齢者医療についても、単に延命するだけではなく、その人がどの様な人生を送りたいのかを踏まえ、その人にとって本当に適切な医療が何かを社会全体で考え、共有していく必要が有ると思います。
診断出来なかった患者に答えを届けるゲノム医療
——未診断疾患イニシアチブ(IRUD)の経験から、ゲノム医療の可能性と課題をどう捉えておられますか。
水澤 IRUDは、原因不明の希少・難治性疾患を対象に、全国の医療機関が連携してゲノム解析を行う取り組みです。これ迄診断に至らなかった患者さんでも、半数以上で診断が付いています。IRUDは主に全エクソーム解析(WES)ですが、全ゲノム解析(WGS)を用いると更に診断率が上がり、現状でも63%以上、今後様々な工夫を重ねれば7〜8割に達する可能性が有ります。解析技術やデータの蓄積が進めば、ほぼ全ての遺伝性疾患が解明される時代も遠くないかもしれません。同時に、ゲノムは非常に大きな力を持っています。病気だけでなく、髪や目の色、身長、記憶力等の正常形質にも深く関わります。勿論、ゲノムだけで決まる訳ではなく、ゲノムと環境の双方が関係します。例えば運動によって筋肉が変化するのも、環境からの刺激によって遺伝子の働き方が変化した結果です。ラットでは甲状腺ホルモンを減らすと足の速筋が遅筋へと変化します。理論的には、特定の化合物によって筋肉の性質を変えたり、特定のタンパク質を介して記憶力等の脳機能に働き掛けたりする事も可能です。これ迄、正常形質への介入は「神の領域」として避けられてきましたが、遺伝子治療等によってゲノムに介入出来る可能性が生まれています。解析技術の進歩によって、全ゲノム解析を実際の医療に生かす事も現実的になってきています。但し、長期的な影響が十分に把握されていない以上、適切なルールや管理が不可欠です。こうした背景の下、23年6月には「良質かつ適切なゲノム医療を国民が安心して受けられるようにするための施策の総合的かつ計画的な推進に関する法律」、所謂ゲノム医療推進法が施行されました。日本では、法律が出来る事によって行政が動きます。その意味で、法律の存在は患者さんにとって非常に大きな力になります。これ迄、医療、健康、教育、研究は、それぞれ異なる省庁が担当し、縦割りで接点が少ない面が有りましたが、今回の推進法に基づく基本計画には複数の省庁が参加し、ゲノム医療を国全体で発展させる国家プロジェクトが動き始めました。その中核を担う組織として設立されたのが、日本ゲノム医療推進機構(GeMJ)です。































LEAVE A REPLY