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未来の会

私の海外留学見聞録 56
〜留学生活、研究は険し、家族は癒やし〜

私の海外留学見聞録 56〜留学生活、研究は険し、家族は癒やし〜

島村 弘宗 (しまむら・ひろむね) 国立病院機構仙台医療センター 副院長・外科部長 留学先: 米国ピッツバーグ大学(1997年〜98年)

私が外科医を志したのは“がん治療”に興味を持ったからであり、東北大学第一外科入局後はがんの研究に携わりたいと思っていました。1994年4月に大学院生としてがんの研究に足を踏み入れ、実験生活を送っていた大学院3年目に転機が訪れました。突然、PI(Principal Investigator)である上司から「島村、おまえピッツバーグに行くことになったから」と告げられたのでした。

どうやら上司が某学会に出席した際、海外からの招待演者であったロッツェ(Michael T. Lotze)教授に突撃し、留学生を1人取ってくれるよう頼みこんでOKをもらったというのです。上司のバイタリティーは大したものですが、有無を言わさず私を留学生に指名してしまう強引さは恐るべしですし、「はい、分かりました」と答えるしかなかった当時の医局の雰囲気は、今では考えられないことでしょうね(ハラスメント!?)。

97年1月初旬、私は先ず単身で米国のピッツバーグに向かいました。妻は退職後の4月に娘と共に合流することになったので、とりあえず私が先に行って居住環境を整えておくことにしたわけです。入居したアパートには多くの日本人家族が住んでおり、妻子が合流してからは家族ぐるみでお付き合いさせていただいた方々もいらっしゃいました(帰国後の現在でもお付き合いしているご一家もあります)。

ピッツバーグはペンシルバニア州の南西部に位置しており、かつての「鉄鋼の街」から、現在は医療やテクノロジー、名門大学(カーネギーメロン大学や私の留学先であるピッツバーグ大学)が集まる学術・文化都市へと生まれ変わり、「全米で最も住みやすい都市」にも度々選ばれている魅力的な街といわれています。たいへん住みやすいのですが、冬は寒く、街の代名詞にもなっている“スリーリバーズ”と称される河川も凍るという噂。ただ、幸いにも私たち一家が過ごした冬は比較的暖冬で、仙台に住んでいた私たちにとっては全く問題のないレベルでした。

それでも、関西や九州地方から来られた方々は「寒い、寒い」と騒いでいました。ときどき雪も降ったので、同じアパートに住む日本人の多くは地下の駐車場を契約していたようですが、私たちは節約のため、車は路駐。ある大雪の日に私が車の雪掻きをしているところに南・西日本出身の友人たちが通りがかり、「何してんの?」と不思議顔……。「何って、雪掻きですよ。仙台でもたまに雪は降るので慣れていますから」と答えながら手際よく雪掻きする私の姿を見て、友人たちは物珍しそうに感心していました。

険しい研究生活の中で感じる、人々の温かさ

当時のピッツバーグ大学には、世界で初めてヒトの肝臓移植を成功させたスターツル博士が在籍しており、多くの日本人外科医が肝移植を学ぶために留学していました。移植の基礎研究も盛んで、スターツルラボでは免疫抑制に関する多くの研究が行われていました。実は、私が所属したロッツェラボは、スターツルラボと同じ建物の同じ階でした。ロッツェ教授は免疫療法で名を上げた元外科医の研究者だったので、私の研究テーマは腫瘍免疫になりました。スターツルラボでは移植において「いかに免疫系に(移植片を)認識させないか」を研究する一方で、すぐ近くで我々は「いかに免疫系に(腫瘍を)認識させるか」という腫瘍免疫の研究を行っていたわけですから、表と裏の関係でしょうか。

当時の流行は樹状細胞(Dendritic Cell、以下DC)を用いた免疫の制御。私もDCを用いたがんの免疫療法に関する研究に着手しました。予めマウスに培養がん細胞を接種して腫瘍を形成しておき、治療群には事前に調整したDCワクチンを(コントロール群にはプラセボを)投与し、後は毎日腫瘍径を測定するという実験で、免疫系が活性化されて、腫瘍が小さくなってくれればビンゴ! というものです。

問題は実験が長期間に及んだこと。免疫が動くには時間がかかるのです。マウスに植えた腫瘍の観察に数週間かかり、準備から結果の解釈、ボスとのディスカッションまで含めれば2〜3カ月経ってしまいます。そして、思うような結果がなかなか得られず、時間だけがどんどん流れていきました。基礎研究の道の険しさを思い知らされた日々でした。

日本で外科医として働いていた頃は、病棟からの呼び出しも多く、家族団らんの時間は限られていました。しかし、基礎実験のみの米国留学時代は、緊急呼び出しもなく、家族で過ごす時間がたくさんあり、今から思えば大変貴重な時期だったと言えます。

貧乏生活ではありましたが、「せっかく米国に来たのだから」ということで、家族旅行には何度も出かけました。ワシントンDCやニューヨークに車で出かけたり、私や妻の両親を別々に米国に呼んで、一緒にナイアガラの滝を見に行ったりした他、更にフロリダのディズニーワールドにも足を延ばしました。おかげで、親に借金をする羽目に……。しかし、家族で多くの楽しい時期を過ごし、癒やしになったので、借金をした甲斐が十分ありました(もちろん帰国後に返済完了)。

米国生活で1つ印象に残ったシーンがあります。クリスマスが近いある日の夕方、家族で街のレストランに外食に出かけました。その店の一角には綺麗なクリスマスツリーが据えてありました。娘が近くで見ようと小走りしたのですが、何かに引っかかり転倒してしまいました。その時、慌てて私たちが駆け寄ろうとするよりも早く、近くに座っていた男の子が、さっと駆け寄って娘を起こし、「Are you all right?」と声をかけてくれたのでした。男の子は小学校低学年くらいの米国人と思われましたが、その勇気と行動力にいたく感心しました。この例に限らず、米国人の親切さに心が和んだことが何度もありました。米国という国は戦争を仕掛けたりする嫌な面がありますが(当時は「9.11」の前でしたが、過去には湾岸戦争などもありました)、「普通のアメリカ人はすごく親切で思いやりのある人が多いな」という強い印象を持ちました。

不安だったのが充実に変わった米国生活

何とか論文執筆に値する実験結果を得たところで、冒頭で述べた医局の上司から「そろそろ2年だから帰ってきなさい」というメールが届きました。急いで論文の初稿を書き上げ、ロッツェ教授に直されて投稿したところでタイムアップ。あっという間の2年間でした。

帰国準備を進める中、初めは留学に付いていくことに消極的だった妻が「もう少し延長できないの?」などと言ってきました。妻は娘を保育所に預けて、ピッツバーグ大学の外国人向け英語講座に通ったり、モールでのショッピングを楽しんだり……。自宅とラボの間をバスで通勤するだけの私より、妻の方が余程米国生活をエンジョイしたようです。

帰国直前に、ロッツェ教授が自宅にラボの皆を呼んで、私の送別会を開いてくれました。ラボの仲間たちは多国籍で、ナイスガイ揃いでした。私も仲間達から「Hiro」と呼ばれて溶け込んでいました。実験で助けてあげたりしたら “Hiro is hero!” などとおだててくれたり。送別会では一人ひとりハグしながら別れを惜しみ、そしてロッツェ教授の奥様に惜別の言葉をかけられた途端に、不覚にも涙腺が爆発してしまいました。

渡米当初は不安ばかりが先行しましたが、いつの間にか米国生活にどっぷりつかり、家族団らんの充実した2年間を過ごすことができました。

円安が厳しい今日この頃ですが、私自身にとっては、留学は大変素晴らしい経験だったと言えます。なので後輩たちにも是非、留学を勧めたいと思います。

▲ロッツェ教授(中央白衣)を囲んでラボの一同(教授の右上、腕を組んでいるのが筆者)

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