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未来の会

心因性疾患と器質因性疾患の十字路

心因性疾患と器質因性疾患の十字路

 前回、「のどの違和感」について話した。のどの違和感やそれに基づく声の出しにくさは、精神分析の1丁目1番地とも言えるほど、こころの問題と直結した症状である。

 作家の故・瀬戸内寂聴氏は、長年続けたラジオコラム「今日を生きるための言葉」の第1032回でこう言っている。「『物言わぬは腹ふくるるわざ』と兼好法師が言っています。我慢して物を言わないと、お腹にわだかまりができ、毒素となります。我慢せず、ほどほどに、言いたいことは言いましょう」。「物言わぬは…」は、言うまでもなく吉田兼好『徒然草』の一節だ。言いたいことを言わない、あるいは言えないと「腹がふくれる」と兼好法師は言い、さらにそれが「毒素となる」と寂聴氏は言う。精神科医ならこれを受けて、「その毒素があなたののどに違和感を感じさせるのです」と言うかもしれない。

 しかし、「のどの違和感」という訴えを即、「何か言いたいことがあるのに言わずにいるのだろう」と心理的に解釈してしまうと、身体的な疾患の見逃しにつながる危険がある。

「物言わぬは腹ふくるるわざ」の毒素とは

 これはまさに“釈迦に説法”だが、「なんだかのどがおかしい」「水や食べものの呑み込みがへん」という訴えを聴いたとき、まず考えなければならないのは「心因性以外の疾患の除外」であろう。そのためには、それが「嚥下しなくても起きる症状」なのか、「嚥下直後からの症状」なのかを考えなくてはならない。前者であればそれは「口腔や咽喉の障害」であり、そのあたりの精査とともに逆流性食道炎や後鼻漏なども考えなければならない。またそれが呑み込みの直後から起きているとなれば、可能性として食道の障害が浮かび上がる。

 ここでやっかいなのは、さらに精査を進めるためにどういう専門科を紹介するか、ということだ。前者なら耳鼻科、後者なら消化器内科とそれぞれ紹介先が異なる、というのが悩ましい。それに患者さんは、「のどのおかしさは、ものを呑み込むときでなくても感じますか、それとも呑み込もうとしたときに詰まる感じですか」と尋ねても、「どっちでしょう。そのときで違うような、どっちもあるような」とはっきり答えられないこともある。

 ただ、だからといって「ほら、心因性だ」と決めつけるのは危険だ。以前、症例検討会で種々の検査で異常がなく、画像を放射線科医に読影してもらったが「問題なし」とされた喉頭違和感のケースで、「やっぱり何かあるのでは」と研修医がさらに入念に所見を検討したところ、小さな甲状舌管嚢胞が見つかった、という話を聞いたことがある。

 この嚢胞は感染や発がんリスクがあるとされるが、その確率は高くない。ただ、もし見逃しても命にかかわることは少なかったはずとはいえ、やはり摘出は必要だっただろう。それに何より、甲状舌管嚢胞の穿刺と吸引を行ったところ、「のどの違和感」はすぐに消失したというのだ。

 最初から「女性…のどの違和感…ほかに目立つ所見はなし…まあストレス性だろう」とあたりをつけ、「何かストレスはありませんか」と尋ねると、だいたいの人は家族や仕事、お金のことなど何らかの心配ごとを話す。するとますます「やっぱりそれだ」となってそこに焦点をあてて話を聴き、「これが効きますよ」と半夏厚朴湯などを処方する。しかし、もしそれが嚢胞によるものだったとしたら、その人の症状はいつまでたっても治らない。そんな場合もあるのだ。

2つの視点からのアプローチ

 私自身が経験したケースを紹介する。他の精神科でしばらく「心因性」と診断されて抗うつ剤などを服薬してきた男性がいた。実際にその男性には、まさに「食べものも喉を通らなくなりそう」という大きなストレスがあったのだ。私もこの人に精神科外来で会ったら「心因性の喉頭違和感」と診断しただろう。ところが少しずつ体重が減ってきて、その中でたまたま私が相談を受ける機会があった。そして、念のために上部消化管内視鏡を受けてもらったところ、早期の食道がんが見つかった。ただ、消化器内科医によれば「この程度の食道がんでは嚥下障害までは起こるとは考えにくく、症状はやっぱり心因かも」ということであったので、実際のところどこまでが心因性でどこからががんによるものかはわからない。

 最初に心因性としてつまり精神医学的な方向から光をあてるか、「絶対に器質的疾患が隠れているはず」という観点から光をあてるか、それを決定するのは意外にむずかしい。「その両方を忘れてはいけない」と言うのは簡単だが、人間の認知機能は2つの方向から同時に診断推論を進めていけるほど便利にはできていない。最初に決めた方向性に引っ張られる「アンカリング・バイアス」という認知バイアスが起きて、ほかの可能性が見えにくくなってしまうのだ。

 長年、精神科医として臨床に携わってきた私だが、現在は主にへき地診療所で内科を中心としたプライマリ・ケアに従事している。そして、週末に東京に戻ったときには精神科の外来にも従事している。「精神医学的視点を持ったプライマリ・ケア医、プライマリ・ケアの医的視点を持った精神科医」としてやって行くのが目標だったが、同様の理由でそれもむずかしい。これは私の技能的問題なのかもしれないが、プライマリ・ケアの現場で「これは精神医学的な問題では」と思った瞬間に器質因が背景に退いて見えにくくなり、逆に精神医療の現場で「この人には器質的問題があるのでは」と思って検査などを指示すると今度は精神医学的なアプローチがお粗末になってしまいがちなのだ。

 それを防ぐためには、精神科医と内科医などが別々に自分の専門的な観点から診察を進め、どこかの時点で推論したことを突き合わせて診断を決める、というのが理想だろう。しかし、そんなことができる医療機関はないだろうし、患者さん側からしても「内科医にまず会って、次に精神科医と話してください」と2度も初診の診察を受けなければならないのは負担だ。そうなるとやはり「精神科医的内科医」もしくは「内科医的精神科医」が、1人で2つのアプローチをできれば同時にこなす、という荒ワザに出るしかない。

 もちろん、「誰か見ても虫垂炎」「誰が見ても躁うつ病」などというときにも精神科医的視点、内科医的視点が必須だなどと言うつもりはない。というより、ほとんどの内科外来は内科医で、精神科外来は精神科医でことが足りる。しかし、この「のどの違和感」のようにまさに心因性と器質因性の十字路ともいえる訴えの場合は、ふたつのアプローチが不可欠だ。

 ほかにもこういった「心因と器質因の十字路」のような疾患はいくつもあるだろう。ちょっと思い出すだけでも、頭痛、吐き気、腹痛と下痢、それに腰痛をはじめとする筋骨格系の痛みなどがある。私自身、これからそういった疾患の見方や考え方をさらに深めて身につけたいし、そのつど発信もしていきたいと思う。

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