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未来の会

第20回 私と医療 ゲスト 小松本 悟 足利赤十字病院名誉委員長

第20回 私と医療 ゲスト 小松本 悟 足利赤十字病院名誉委員長
GUEST DATA
小松本 悟(こまつもと・さとる)①生年月日:1950年(昭和25年)10月2日 ②出身地:東京 ③感動した本:『信長の原理』垣根涼介、『マイ・ストーリー』ミシェル・オバマ 、『知識創造の経営』野中郁次郎、『わが経営』ジャック・ウェルチ、『ハーバードからの贈り物』デイジー・ウェイドマン ④恩師:小野康平(初代足利赤十字病院 院長)、近衞忠煇(日本赤十字社 名誉社長)、ブリトン・チャンス(ペンシルバニア大学 名誉教授) ⑤好きな言葉 :「弛み無い努力」「置かれた場所で咲きなさい」「チャンスを生かす」⑥幼少時代の夢:宇宙に行きたい。パイロットになりたい。船医になりたい。⑦将来実現をしたい事:天国に行きたい。
運命を変えた東大紛争・慶應医学部へ

生まれ育ったのが下町の葛飾だったので、中学3年迄は遊びが全てでした。高校は両国高校に進み、それ迄とは打って変わって、勉強しかしませんでした。当時は12クラス在って、成績順に編成された中でA組のトップの方にいた為、医学部を受けるようアドバイスを受けて東大を目指す事に。

両国は昔で言う第6学区で、東京都の学区合同選抜制度の最後の学年でしたので、先生達も私共の学年を徹底的にシゴいて、皆を東大に入れようと必死でした。ところが1968年に東大安田講堂事件が起きて、翌年の私が受験する筈だった入試が中止となりました。それを聞いた時はショックでしたね。同級生の半分位は浪人しましたが、私はその時かなり調子が良く、1年間それを維持するのは難しいと考えて慶應の医学部に進みました。

学生の頃はボート部に入って、今度はガリ勉から運動だけの生活。ボートを漕ぐ時は脚を使いますから、腿の筋肉は今の2倍は有りましたね。その後は大学院に進みました。ボート部の仲間は体力が有るので皆外科に行きましたが、私は当時1番難しい診療科と言われていた神経内科を選びました。神経には未知の部分が沢山有るので興味が湧いたのと、ロジックが有るところが私の性に合っていたんですね。卒業後は、アメリカのペンシルバニア大学に2年間留学し、脳神経の研究をしました。

歴史ある足利赤十字を背負い、独立採算の厳しさと闘う

帰国すると、慶應にはポストが無いから2年ほど慶應の関連病院である足利日赤に行って欲しいと言われました。結局、それから3〜4年位で副院長になって、気が付けば足利に来て32年。私の医者人生は3分の2が足利という事になります。

足利赤十字病院は、戦後、小野康平先生が足利の両崖山という山の麓に建てた病院でした。小野先生は慶應医学部の30年卒で、創設当時は航空機メーカーの中島飛行機附属の太田病院の院長でした。中島飛行機はゼロ戦を造っていましたので、終戦後にGHQが入り、中島飛行機は解体され、軍の衛生病院と言われた太田病院も同時に潰される事になりました。

それではあんまりだと言って、隣町の足利の方々からもここに病院を造ってくれないかと声が上がりました。しかし、そこは群馬県と栃木県の県境から程近い場所で、県境を跨いだ直ぐの所には前橋赤十字病院が在り、県内には済生会宇都宮病院、その少し先に佐野厚生総合病院がある。だから、日本赤十字本社からも県からも足利に病院は必要ないと言われ、小野先生は切腹覚悟で社長室に乗り込んだという逸話が有ります。当時の島津忠承社長にどうにか許しを得て、そこから小野先生は20年かけて610床の病院に迄されました。

足利赤十字病院は、歴史的に自治体より運営費の補助金を受けた事がありません。4割が群馬の患者さんですから、赤十字というブランドを戴いて、赤十字精神を以て地域の医療に貢献しようという事で、栃木県にも足利市にも頼らず、独立採算の中でやって来ました。本社からの援助も一切有りません。

ところが、私が副院長だった頃には、建物の老朽化が目立って来て、人気も無くなって来ました。2003年にはDPC制度が始まり、経営はかなり厳しい状態。丁度その頃、東京医科歯科大と一橋大が共同でMBAの講座を開設するというのを聞き、そこで病院経営を学んで、08年に院長に就任しました。

人生を賭けた全面移転を決断・日赤のトップに輝く

自力で経営を良くして行こうと増床に増床を重ねた結果、当時の病棟は効率の悪い縦割りの構造になってしまっていました。「ここは我々の診療科の病棟だから他科の患者は入れない」という風土が根付いており、病棟稼働率は90%を切る状況でした。それらを全部取り払って、且つIT化を進めるには、私の中では全面移転しかありませんでした。

歴代の院長先生や事務長、現職の医師、職員は皆、昔の足利赤十字病院でやって来た経験しか無いので反発も有りましたが、最後はやれるならやって見せてくれよと言ってくれました。もしも失敗する事になれば、職員1200人が路頭に迷う事になる。私にとっては、絶対に失敗出来ない人生最大の賭けでした。

幹部と綿密な計画を練り、11年に渡良瀬川のほとりに移転して実現させた全室個室の混合病棟は、病床稼働率が上がり、100億円だった医業収益は移転から2年位で170億円になりました。赤十字の中で一番の利益率で、勿論黒字です。職員の給料が上がって、福利厚生は今迄で最も良くなり、若い看護師の離職率が減りました。

今は人材や良い医療機器にどんどん投資をしているところです。ただ、経営の恐ろしさも私はよく知っているので、1人当たりの生産性や成長性、収益に対する付加価値率を92%以内に留める等、科学的に考えながら行うようにしています。病院の職員にも、消耗品なら1円でも安いものを仕入れるようにと普段から言っています。一方で、例えば「ダヴィンチ」等は、いざ購入する時は1番良いものを選ぶ。メリハリが大事です。

人生の収支をプラスにして、夢は天国に行く事

足利赤十字病院は、コロナの助成金は殆ど頂いていません。一般の患者さんとコロナの重症患者さんで満床ですし、全室個室ですからコロナ病棟を作る必要がありません。ワクチンや患者の受け入れ協力等で約4億円は頂いていますが、普通の病院だと30〜40億円だそうですね。そうなると、全国に91ある赤十字病院の中で常にトップクラスであった足利赤十字病院は30何位に落ちてしまいますが、コロナ禍においても、一般診療とコロナ対応を両立させ、補助金に頼らずに健全な黒字経営を続け、地域医療を守ることを優先して来ました。

私は方向性を示しただけ、実質的には職員がよくやってくれました。私がJCI認証を取ると言えば皆付いて来てくれるし、総合入院体制加算1の方向で行くとなれば、皆がその方向に動く。だから、私は何を決めるのにも一生懸命考えます。1つ間違えれば、赤字になって給料が払えなくなってしまうので。

妻は、私の人生の通帳は未だマイナスだと言うんです。いろんな人に助けられて、お星様の思し召しで素晴らしい賞も頂いた。だから、この先の残された人生で、もうちょっとだけ良い事をして、医業収支ではなく、今度は人生の収支をプラスにして天国に行きたいと願っています。

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