SHUCHU PUBLISHING

病院経営者のための会員制情報紙/集中出版株式会社

未来の会

第21回 私と医療 ゲスト 川上 正舒 公益社団法人地域医療振興協会 副会長 練馬光が丘病院 名誉病院長、自治医科大学 名誉教授

第21回 私と医療 ゲスト 川上 正舒 公益社団法人地域医療振興協会 副会長 練馬光が丘病院 名誉病院長、自治医科大学 名誉教授
GUEST DATA:川上 正舒(かわかみ・まさのぶ)①生年月日:1946年9月1日 ②出身地:東京 ③感動した本:『銀の匙』中勘助、『城砦』A.J.クローニン ④恩師:江橋節郎(東京大学医学部薬理学教授)、大澤仲昭(東京大学医学部第3内科講師)、Anthony Cerami(Rockefeller大学Medical Biochemistry教授)、髙久史麿(東京大学第3内科教授、自治医科大学学長) ⑤好きな言葉:忍 ⑥幼少時代の夢:特に無し。強いて言えば音楽家、画家。親(特に母親)の健康問題は日常の恐怖であったので、家族の健康が一番の懸念であった ⑦将来実現したい事:コロナ禍で諦めざるを得なかった、開発中の新薬(エリスロポイエチンの作用の選択的作動薬)の上市
理系の家系で育ち、最終的に医学部を選択

世田谷の東玉川で生まれ育ち、公立の小学校、中学校に通いました。絵画やピアノを習わせてもらい、幼少の頃の夢は画家と音楽家でした。父からは、お前の趣味はヨーロッパの貴族の様だと笑われていました。母は私が幼い頃から病気がちで、小学校1年生の時の遠足の付き添いはお手伝いさんでした。

高校は受験をして東京教育大学附属高校(現・筑波大学附属高校)に入りました。母が雑司が谷の出身で、私もその辺の地理に馴染みが有った事と、文京区や豊島区の人にとっては名門校でしたので、母が入れたがったのだと思います。

医学部に入ったのには、それほど強い動機が有った訳ではありませんでした。受験の年の最後の最後迄、建築に進もうかと迷っていたぐらいです。父は東工大で、私の兄2人も東工大の金属と電子工学に進みました。家族の中で、医学部に進んだ私は変わり者だと思われていたと思います。私が東大を受験した頃は、医学部はそこまで人気が無く、数学が得意で優秀な人は工学部に行くのが普通でした。それでも最終的に医学部に進んだのは、母の病気の事があったからかも知れません。

恩師・江橋節郎先生の信念を心に刻む

学生時代は東大紛争の真っ只中で、私の同級生も牢獄に入りました。純粋な人ほど洗脳されてしまったのですね。私はと言えば、鉄門のヨット部に入部し、紛争中は藤沢に在る大先輩の家の別荘で寝泊まりをして、江の島に通う日々を送っていました。

東大でお世話になった恩師は、薬理学の江橋節郎先生です。先生はカルシウムが筋肉の収縮のキーである事を発見しましたが、その当時はカルシウムの様な小さな分子が生体で重要な働きをしている筈が無いと、誰からも相手にされませんでした。それも紛争の最中で、皆が苦しんでいる時に役に立たない研究をしていると吊し上げられました。先生は「真実を明らかにすれば、必ず人類の役に立つ」と、ご自身の信念を貫きました。今でも、私はこの教えに倣い、大事なのは真実を明らかにする事で、研究が役に立つかどうかは考えてやるものではないのだと、若い者達に一つ覚えの様に話しています。

江橋先生の発見の後、カッツというイギリスの生理学者が、カルシウムが神経伝導に重要な役割を果たしている事を発表し、ノーベル賞を授与されました。江橋先生は大変残念がっておられましたね。『ジャーナル・オブ・バイオロジカル・ケミストリー』(通称JBC)という基礎医学の雑誌が在りますが、先生はそこへ投稿すると、蹴られた挙句に研究を取られてしまうと嘆かれていました。そこで、先生は日本の『JB』にしかご自身の論文を載せなくなりました。その領域の研究者は江橋先生の論文を読まなければ仕事にならないと、世界中の学者がこの日本のジャーナルを購読したそうです。

留学先で運命的なボスとの出会い

東大を卒業してから数年後、コロンビア大学に留学しました。初任給が1万ドル(日本円にして約300万円)でしたが、物価が高く、靴を買うお金もありませんでした。コレステロールの研究をさせてもらえると期待して渡米しましたが、実際に私に割り当てられたのはVD(ビタミンD)結合蛋白のアミノ酸配列を決定するという地味な仕事でした。それでも、ここでの経験は少なからず後の研究の役に立ったと思っています。

その後、アンソニー・セラミ教授のいるロックフェラー大学へと移りました。当時、「変なヘモグロビンを持っている人が糖尿病になる」と言われていた中で、セラミ先生が「正常なヘモグロビンに糖がくっ付く」とお話をされているのを聞き、目から鱗が落ちる思いがしました。

ロックフェラー大学に就職した時、「大学での研究で得られた特許は、全て大学に譲り渡す」という誓約書を書かされ、1ドルを受け取りました。まさかそれが将来自分の身に関わるとは、その時は微塵も思っていませんでした。

セラミ教授の研究室で脂質代謝の研究に取り組む中、私はインスリン抵抗性誘発物質である「カケクチン」を発見する事になりました。後に発表された腫瘍壊死因子(TNF)と同一の物質です。我々はカケクチンの働きを阻害する抗体を臨床に応用出来るのではないかと考え、ロックフェラー大学がこの特許を取得しました。最近になって、抗TNF抗体のレミケードとヒュミラが我々の特許に当たると認められた事から、ロックフェラー大学には特許による大学史上最大の特許料が入ったと言われています。

特許の報奨金で新薬の開発、諦め切れない上市の夢

私とセラミ先生も報奨金を頂き、これを元手にベンチャーを始める事になりました。先ず、抗TNF抗体と同じ様な作用がある物質を探し、エリスロポイエチンに行き当たりました。ところが、エリスロポイエチンは我々の目的の治療に必要な用量では血栓が出来る程の造血作用が起こる事から、この治療用途で使う事は出来ませんでした。しかし、エリスロポイエチンには造血作用をもたらす受容体の他に心血管系の受容体がある事が分かり、我々は造血系以外の受容体のみに結合する、小さなペプチドから成る選択的作動薬を作り出しました。

この薬は第III相まで行きましたが、臨床効果を示すには50〜60億ドルは掛かりますので、我々の僅かな報奨金ではとても足りません。製薬会社に売り込もうとしていた矢先にコロナ禍となり、何処の製薬会社も未知の開発品に投資をしてくれませんでした。セラミ先生も昨年82歳になり、奥さんからもう諦めましょうという話をされたのが昨年の話です。

セラミ先生は私が留学先から帰国した数年後、ロングアイランドに大学を創立しましたが、新興大学ですから、大きな製薬会社が開発の為の研究費を出す様な事は殆どありません。セラミ先生も私に、「もしロックフェラー大学に残っていたら人生が変わっていたかも知れないですね」と話をしていました。

そうこうしている内に特許も切れてしまいましたが、新薬の上市を果たしたいという想いが、未だ私の心の何処かでくすぶっている様です。

インタビューを終えて

東玉川は田園調布の隣町で、東京工業大学の地元でもある閑静な住宅街だ。ご近所とは言え、父親が東工大の学長、兄らも一番近い同大学に進学し、本人も「東京教育大学附属高校→東京大学」は、絵に描いたような秀才一家だ。髙久史麿先生の期待を担って、地域医療に取り組む。超高齢社会であっても日本の地域医療は安泰だ。(OJ)


中国料理 ヘイフンテラス
東京都千代田区有楽町1-8-1 ザ・ペニンシュラ東京2F
03-6270-2888
火〜土11:30〜14:00(L.O.) 18:00〜21:30(L.O.)
日・祝11:00〜14:30(L.O.)18:00〜21:30(L.O.)
月曜日定休
https://www.peninsula.com/ja/tokyo/hotel-fine-dining/hei-fung-terrace-chinese-restaurant

LEAVE A REPLY

*
*
* (公開されません)

COMMENT ON FACEBOOK

Return Top