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未来の会

第42回 私と医療
ゲスト 齊木 敏文 (一社)日本医療介護事業連合会 副理事長 東京公証人会 前会長、弁護士

第42回 私と医療ゲスト 齊木 敏文 (一社)日本医療介護事業連合会 副理事長 東京公証人会 前会長、弁護士
齊木 敏文(さいき・としふみ)①1955年11月11日 ②北海道  ③小学校の頃に買い与えられた、エジソンやヘレン・ケラー、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、野口英世等の伝記全集 ④恩師:小山昇教授(北海道大学法学部) ⑤好きな言葉:「至誠通天」、 「志を得ざれば再び此地を踏まず」(野口英世記念館を訪れた際、野口の生家の床柱に刻まれていたのを見て感動した)⑥幼少時代の夢:弁護士、医師といった資格の要る仕事(小学校高学年位から) ⑦将来実現したい事:身寄りの無い高齢者の皆様が安心して老後を送る事が出来る仕組みを作る。
学習塾の無い町で育った子供時代

私が生まれたのは、北海道の北東部に位置する遠軽町です。冬の寒い日には気温がマイナス30℃にもなる地域で、銭湯から帰って来ると、帽子からはみ出た髪に氷柱が出来ている事も有る程でした。そんな厳しい寒さに、知らず知らず忍耐力を鍛えられた様に思います。

父は郵便局の職員でした。家計を支える為、中学校を卒業すると直ぐに働き始めたそうですが、後に自ら学費を蓄え、早稲田大学の通信教育等で学び続けた人です。家には父が揃えた文学全集が並んでおり、私も弟も、その向学心に大いに影響を受けて育ちました。そのせいか、私は野山を駆け巡る一方で、家で本を読むのも好きな子供でした。弁護士や医師の様に、資格を活かした仕事をしたいと思い始めたのも、この頃です。只、遠軽町に学習塾は無く、習い事と言えば町唯一の書道教室に通うくらいのものでした。

中学3年生の時、父の転勤で札幌に移り、そこで初めて受けた模擬テストで、初めて偏差値というものを知りました。思えば私は、塾や予備校に一度も通う事無く、大学入試も司法試験も、全ての試験を独学で受けてきました。しかし、当時の田舎では、それがごく当たり前の事だった様に思います。

級友との切磋琢磨を支えに司法試験に合格

高校は札幌西高校に進学しました。同じ学年には女優の田中裕子さんがいましたが、残念ながら話した事は有りません。裁判官への道を意識したのは、裁判官を父親に持つ同級生から「裁判官に向いていると思う」と言われた事が切っ掛けでした。

もう1つの出会いは、高校3年生の時に訪れました。父の急な転勤で、私と弟は下宿しながら通学する事になったのですが、その家の御主人が、嘗て司法試験を志した裁判所書記官だったのです。御主人は私たち兄弟に裁判所の仕事を語り、「司法試験を目指し、裁判官になってはどうか」と勧めてくれました。裁判官が具体的な目標に変わったのは、この頃からです。

そして1974年、北海道大学文類(当時)に進みました。教養課程での1年6カ月の成績で配属学部が決まる為、司法試験を見据えていた私は授業に真面目に取り組み、法学部に首席で入りました。2年生からは同じ志を持つ仲間とゼミを結成。当時の司法試験は3万人近くが受験し、合格者は500人弱という狭き門でしたが、切磋琢磨した甲斐有って、80年に合格しました。学業に専念させてくれた両親には、今も感謝しています。

裁判官、訟務検事として医療訴訟に関わる

医療訴訟との関わりが始まったのは、83年に札幌地裁判事補となってからです。裁判官時代で最も印象深いのは、東京地裁判事補として未熟児網膜症事件の集団訴訟の判決を担当した事です。主任裁判官として第1次起案を任され、膨大な記録と向き合いながら、1年近く官舎に籠もって3000ページ程を書き上げました。幼くして視力回復の機会を失った患者をどう救うか、その一方で医療現場に過度な負荷を掛けてはならない——相反する要請の何処に線を引くかを悩み抜いた経験は、その後の私の大きな財産となりました。

95年には国の訴訟代理人を務める訟務検事となり、以後13年間、国立病院や国家公務員共済組合連合会の病院を巡る医療過誤訴訟に携わりました。私は多くの事件で、医師の現実的な裁量権を認めるべきだと主張してきましたが、産婦人科や小児科の訴訟では裁判長も原告側に傾きがちで、判断は厳しくなりました。これが続けば若手の産科・小児科離れを招くという危機感は、当時から医療関係者の間に有ったのです。そこへ追い打ちを掛けたのが、2006年の福島県立大野病院事件でした。帝王切開を受けた妊婦が出血多量で亡くなり、担当医が業務上過失致死罪で逮捕されたのです。賠償責任なら金銭で解決出来る面も有りますが、刑事責任を問われ逮捕に迄至った事の衝撃は大きく、医療界に萎縮が一気に広まりました。

国の代理人として最も心に残るのは、最高裁判例ともなったエホバの証人輸血拒否事件です。患者の命を救う為に手術中の輸血に踏み切った医師が、輸血を拒んだ患者の自己決定権を侵害したと断じられた——その判決にどうしても納得が行かず、最高裁まで争い、敗れました。

公証人として終末期の患者に関わる

その後は、東京高裁部総括判事を経て19年に退官し、同年に麹町公証役場の公証人となりました。公証実務を通して、今度は患者の視点から終末期医療に関わる機会が増えました。

患者の命に関わる治療方針は、原則として本人の意志に基づいて決められるべきというのが法務省及び厚生労働省の考え方ですが、高齢等により判断能力が十分でない場合、意思確認する事が難しくなります。その為の手段の1つが「尊厳死宣言公正証書」です。判断能力の有る内に、不治の病になった際の治療方針に関する意思を公証人の前で宣言すると、いざという時、医療現場に意思を伝えられます。とは言え、尊厳死宣言公正証書の書式例には曖昧な表現が多く、医療者が治療方針を決定し難い面も有る様に思います。又、患者側から「自分の意向を盛り込みたい」と要望を頂く事も有りますが、公文書である性質上、内容を希望に合わせて大きく変えるには限界が有ります。

今後は公正証書の普及啓発に尽力

尊厳死宣言公正証書は、「尊厳死宣言」という響きに近寄り難さが有る為か、利用者が依然として少ないのが実情です。今後は、医療現場の声も取り入れた「医療に関する事前指示書」を準備する為の仕組みとして位置付けし直す事で、より利用し易くなるのではないでしょうか。延命治療の要否だけでなく、胃瘻を行うか否か等、具体的な選択項目を設ければ、患者が自らの希望を示し易くなり、医療現場にとっても判断の支えになります。尤も、実現には厚生労働省や法務省の協力が欠かせません。現状より自由度を認める機運が高まれば、改善出来る余地は有ると思っています。私は25年に公証人を退官し、弁護士業務に携わる一方、日本医療介護事業連合会の副理事長としても活動しています。近年、身寄りの無い独居高齢者が急増していますが、支払い能力が有りながら受け入れを断られる方も少なくないのが実情です。私はこうした方々を対象に、遺言や任意後見、死後事務委任契約等を組み合わせた備えについて普及啓発活動を行っており、患者が安心して治療を受け、医療機関が安心して受け入れられる体制作りを目指したいと考えています。

インタビューを終えて

病院が患者を診る時代から患者の人生そのものを支える時代へ入った。急増する「お一人さま問題」は、医療機関だけでは解決出来ない難題だ。東京高裁部総括判事、東京公証人会会長の要職を経て、日本医療介護事業連合会副理事長に就任された齊木敏文先生は、公正証書という法的仕組みを武器に、この社会課題の解決に挑んでいる。身元保証、財産管理、死後事務——医療現場が頭を抱える問題に対し、具体的な解決策を提示出来る数少ない存在だ。今後、お一人さま問題の解決に向けて齊木先生が果たす役割は極めて大きい。医療機関にとっては、正に待ち望んでいた“救いの神”の登場と言えるだろう。(OJ)


アスパラガスのパンチェッタ巻きのフリット
産地に拘り厳選した旬のアスパラの食感と旨みが魅力の、ディナーコースの逸品。パン粉のサクッとした食感とパンチェッタの程よい塩みが、ザ・プレミアム・モルツの深いコクと好相性。
会員制レストラン シーボニアメンズクラブ
東京都千代田区内幸町2-1-4日比谷中日ビル1F
03-3503-6301
11:30〜14:00
17:00〜22:00
ランチは会員以外の利用可
土曜はランチ営業のみ
日曜休

 

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