石蔵 文信(いしくら・ふみのぶ)1955年京都府生まれ。1982年三重大医学部卒業、大阪大学循環器内科入局。大阪大学大学院医学系研究科保健学専攻准教授を経て、2013年大阪樟蔭女子大学教授。17年4月から現職。
第45回
大阪大学人間科学研究科未来共創センター
招へい教授
石蔵 文信/㊤
数カ月続いた倦怠感の後、全身の骨に転移した前立腺がんが発覚した石蔵文信は、残りの人生の処し方と真剣に向き合うことになった。
全身の倦怠感が続くもPSA検査に至らず
3年前、定年まで4年残し、61歳で大学の教授を辞した。医師である長女がキャリアを中断せずとも済むよう、孫育ての役割を買って出たのだ。3人の娘の教育は、眼科医の妻に任せきりだったので、ちょっとした“罪滅ぼし”もあった。
石蔵の専門は循環器内科だが、男性更年期障害の診療にも力を注ぐ。さらに女性の心身の不調にも夫の言動が関わっていると、「夫源病」を提唱した。大学勤務の傍ら自宅の妻のクリニックで週2〜3回、月100人以上の患者を診ていた。週1回は外の病院の外来も手伝っていた。
定年後の男性が妻に負担をかけないよう率先して料理することを説き、自らも朝食や昼食づくりを実践した。男性向け料理教室や様々な講演会などは、大学在職中は年40〜50回に抑えていたが、退職後は100回以上こなしていた。高校時代に始めた硬式テニスは今も週3回、自宅の屋上庭園で園芸にも勤しむ。さらに月2回ほどは釣りにも出かけ、相変わらず多忙な日々だった。
異変は2019年の年末からあった。講演会では話をするのがやっと、経験したことのない倦怠感を覚えた。年末年始は会食も多いが、食欲がわかず、喉を通るヨーグルトなどで凌いだ。血液検査では消化器などの異常は見つからなかったが、唯一骨代謝のマーカーが異常値を示した。
年が明け2月、不調がピークに達した。全身のCTを撮ってもらい、自分で画像を覗いたところ、肺や肝臓など内臓に異常はなさそうだったが、“素人判断”だった。3日後の朝、画像をチェックした放射線外科医から電話があった。「前立腺にがんがあり、骨に転移していますね」。
唐突ながんの告知だった。一般に前立腺がんは予後が良いとされるが、骨転移があれば、かなりの進行がんだ。市民病院の内科医である長女の夫に電話すると、すぐ来院するようにとのことだった。
泌尿科医は、前立腺がんに間違いないと診断を下した。採血は年末から重ねていたが、前立腺がんの特異的なマーカーであるPSAは測定していなかった。PSAは0〜4ng/mLが正常値とされるが、石蔵のそれは実に2000 ng/mLを超えていた。PSAは加齢に伴って上昇する。5〜6ng/mLでも、心配して検査を繰り返している人は多い。石蔵はそれは無駄なことと考えており、今回の検査が初めてだった。これだけがんが進行するには、2〜3年はかかっているという。「これまでPSAを測らんかったんは最大の不覚やった」。
そのまま1泊の検査入院をして、細胞診を受けた。骨シンチグラフィ検査では、まんべんなく全身の骨に検査薬が集積しており、「Beautiful Bone Scan」という状態だった。長引く不調の原因が判明して納得した面もあったが、動揺もあった。「もうあかへんやろ。5月の連休までもつかな」と、少し弱気になり、家族のために何を残せるか真剣に考えなくてはならないと痛感した。
医師は自分が専門とする病に罹るだろう
石蔵は1955年京都府に生まれ、大阪の繁華街であるミナミで育った。父は会社役員、母親はファッションデザイナーで、一人息子の石蔵を生んだ後渡仏し、イヴ・サンローランの初めての日本人弟子となった。帰国後は東京・青山に事務所を構え全国を飛び回っており、石蔵は母の妹である叔母に育ててもらった。やはり海外での仕事が多く留守がちだった父は、石蔵が高校3年生の頃に脳卒中に倒れ、3年ほどして帰らぬ人となった。
石蔵は理数科目が得意だったが医師になるつもりはなく、慶應義塾大学理工学部に進学、母親の拠点があった青山から大学に通った。大阪の道修町に薬問屋を営んでいる親戚がいた。医師との伝手があると商売が進めやすいと考えたのか、石蔵に医学部進学をしきりに勧め支援を申し出た。父が倒れ母も留守がちな状況で、石蔵はその道も悪くないと考え、一念発起して医学部の受験勉強に取りかかった。“仮面浪人”だったが、翌春、三重大学医学部に合格した。それまで住んでいたミナミや青山に比べると“都落ち”したような感じもあり、1年ほどは慶應に復学したいと考えていたが、次第に医師の道に染まっていった。
卒業を控えた頃、内科系でありながら瞬時の判断が求められる循環器か、心の病を診る心療内科に進もうか迷ったが、先輩の助言で間口が広い循環器を専門的に進むことにした。3年後輩で医学部のテニス部で一緒だった女性と交際しており、石蔵の国家試験の1カ月前に入籍して、共に大阪に移り住んだ。2年後に5年生になった妻は、長女を出産したものの留年することなく、大学を卒業した。やがて、次女、三女も生まれた。
一方の石蔵は医学部卒業後、大阪大学の循環器内科に入局すると、市中の病院や国立循環器病センター(当時)等で修行を積み、特にカテーテル治療は草創期から腕を磨いた。性機能に関心を持ったきっかけは、担当していた20代の重症心不全患者が結婚することになり、助言のために勉強したことだ。98年からの米国メイヨークリニックに留学中、バイアグラが発売された。狭心症の薬として開発される中で見つかった勃起不全への効能を生かした薬で、循環器とも密接な関係があった。
阪大で検査技師を養成する保健学専攻に欠員が出たとかつての指導医に泣きつかれ、留学を1年足らずで切り上げることになった。日本で未発売だったバイアグラを持ち帰り、大学着任後、循環器との関係を調べた動物実験のデータをまとめた。この成果は学術的に高く評価された。また、日本でバイアグラが発売されると、講演依頼が殺到した。
市中の病院の男性更年期外来でバイアグラを処方するうち、心の不調で苦しむ患者が多いことに気付き、かつて志した心療内科にも本気で取り組んできた。「はやりものに飛び付くようなことはせず、困ってる患者の必要に迫られ色んなことを研究してたら、間口が広がった。孫育てで大学をやめたんも、必要やったから」。
そして、前立腺がんを発症。医師は、自分が専門とする病になることが多いと考えていた。「広い意味では前立腺の病気も男性更年期を診とった自分の専門で、前立腺がんも定めかもしらん」
もはや手術は叶わないため、ホルモン療法に賭けるしかない。「どんな早いがんでも、2〜3カ月は猶予がある。終活する間はあるやろ」。 (敬称略)
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