
厳格な祖父との暮らしが医師の道へと導く
両親が東京都西部の地主の家系で、明治時代の家長制度の面影が残る父方の祖父母の家で育ちました。祖父は恩方村(後に八王子市と合併)という村の村長をしていて、幼い頃から「社会の為に役に立つ人間になりなさい」とよく言われたものです。寝る前には、「お爺様、お婆様、休ませて頂きます」と挨拶するのが日課でした。
小学校は自宅から歩いて2〜3分の公立校で、のんびりした雰囲気の学校でした。クラスの中で勉強は得意な方でしたが、ここで満足をしてはいけないと子供ながらに感じたのは、私の気質なのかも知れません。小学2年生の時、桐朋小学校を受験したいと母に伝えると、次の日には3年生のドリルを1年間分買い揃え、母が勉強を教えてくれました。
中学も桐朋学園で学び、高校迄バスケットボール部で鍛錬しました。映画も好きで、放課後になると銀座や新宿に出て映画鑑賞をする日もしばしば有りました。医師を志した切っ掛けは、高校2年生の時、祖父から将来について尋ねられた事でした。生物や人間には昔から興味が有りましたが、祖父が納得する答えは何かと思いを巡らせ、咄嗟に「医者になりたいと思っています」と告げました。祖父は喜んで大学まで援助をしてくれました。
専門課程で本領を発揮し、堂々の首席で卒業
順天堂大学医学部に進学し、1年目は津田沼の学生寮に入りました。8人部屋に体育学部生が6名、医学部生が2名という混沌とした環境でした。当時は一般教育を学ぶ2年間の進学課程と、続く4年間の専門課程とに分かれていましたが、実は2年目で留年をしてしまいました。語学、物理、倫理といった連日の講義に飽きてしまったのです。
それでも周囲からの𠮟咤激励を受けて真剣に勉学に取り組み、1年遅れてお茶の水の専門課程に進みました。「留年組」は教室の中で浮いた存在になり、3年目で留年した北村君が私の主なパートナーになりました。私の恩師である循環器内科の北村和夫教授の息子です。
基礎医学の解剖実習では4人1組のチームを作る必要が有り、北村君と2人で仲間を探していたところ、同じく2人組だった女性達とチームを組む事になりました。その内の1人が、後に結婚した私の妻です。専門課程は興味深い内容ばかりで、以降は本領を発揮し、首席で卒業する事が出来ました。
先見の明で総合医療を学ぶ
順天堂は全国に先駆けて臓器別の内科を開設した大学で、それぞれを専門とする優秀な教授が揃っていました。それも勿論素晴らしい事ではありますが、一方で横断的な診療を行う医師が必要だという考えも有りました。そこで、北村教授に入局の条件として「内科専門医として学べる場所への国内留学」を提示したのです。教授も内科専門医の重要性には賛同して下さり、越谷市立病院の内科への1年間の出向を許可してくれました。
白血病に対する多剤併用療法(DCMP)が導入された頃で、白血病の患者さんを担当させて貰いました。無菌室が無い時代でしたから、感染に注意しながら約1カ月間病院に寝泊まりをして経過観察を続けると、何と完全寛解する事が出来たのです。その他にも1年間で多くの事を経験しました。もう1年延長したいと北村教授に伝えると、「流石に限度がある」と認めて貰えませんでした。
地域の医療を守る為に立ち上がる
総合医療とかかりつけ医を自ら実践する為、腎臓内科医となった妻と二人三脚で1990年におざき内科循環器科クリニック(東京都東久留米市)を開業しました。全国的には多くの地域で過疎化と人口減少が進む中、私が拠点とする多摩地域は大規模な再開発が何十年も前から進められ、この先も暫くは人口増が見込まれるエリアでした。それと同時に、近い将来、住民が高齢化し医療が逼迫する危機に瀕している地域でもあります。住民が安心して老後を迎える為には、地域全体の医療を変えなければならないという思いで、東久留米医師会の役員として携わる様になりました。
その後、浅草医師会の会長をしていた野中博氏からの誘いを受けて、東京都医師会にも本格的に関わる様になりました。「このままでは東京は駄目になってしまう。東京都医師会を立て直す為に副会長として支えて欲しい」と頼まれ、そこから選挙に向けた活動が始まりました。最初の選挙では、野中先生は惜しくも10票差で負けてしまいましたが、勝算は有ると更に2年間頑張り、次の選挙では1票差で見事に勝利を収めました。そこから4年間、私は副会長として野中氏を補佐した後、後継として代議員会で選任され2015年に会長に就任しました。
コロナ禍では「チーム尾﨑」として団結し、地区医師会とも協力してPCR検査の体制を整備したり、ホテルを活用した宿泊療養所の仕組みを作ったり等、独自の対策を講じて来ました。昨年には5期・10年目を迎え、気の引き締まる思いでいます。
全国一律の診療報酬に見直しを求める
全国一律の診療報酬の中で、東京は物価・人件費・土地代が高く、圧倒的に不利な状況にあります。10年程前に、現衆議院議員の安藤髙夫氏が全国で最も物価の安い宮崎県と東京都の100床クラスの病院の収益を比較したところ、同様の医療を提供しても1施設当たり年間1億円もの差が有りました。本来は国が診療報酬を通して1億円を補填しなければならないところです。
都立病院には東京都の予算から23年に約500億円、24年にもほぼ同額が支給されています。東京都の民間病院では23年の上半期には5割以上が赤字と、依然苦しい状況に置かれています。私は10年も前から東京都病院協会と連携し、民間病院に対する支援を求め続け、漸く来年度予算案で民間病院の支援金として321億円が盛り込まれる事になりました。
今年、団塊の世代が全て75歳以上の後期高齢者となり、医療も介護もこれから益々全国一律では機能しなくなるでしょう。特に、東京の様に人口が減らないまま高齢化が進む地域は悲惨です。一方、過疎化が進んでいる地方では、医者も減りますが人口も減る為、オンライン診療等を活用する事等で対応可能です。
こうした実態が明らかになっているにも拘わらず、全国一律を推し進める事こそ、「悪の不平等」と言えるでしょう。未来永劫の皆保険制度を実現する為にも、今後も実態を反映した政策を求めて行きたいと思います。
インタビューを終えて
古武士の風貌を持ち、古武士の如く強い信念を持ち東京都医師会を支え続ける。パンデミックで世界が混乱した時には、東京都医師会を束ね、PCR検査体制を立上げ、東京都民に安心を届け、小池百合子都知事をサポートした。その手腕、行動力は都民から高く評価された。古き良き時代の東京郊外の村長の孫として生まれた男は、幼少の頃から社会貢献の大切さの訓示を受け育った。混乱時の活躍の原動力は祖父からの教育の賜物に違いない。また、医療のあるべき姿を体現し、医療に携わる者としての矜持、社会全体を俯瞰した視点、そして何よりも患者や医療従事者への深い愛情を持つ事が言葉の端端から感じられたが、それも幼少時の教育の賜物だろう。東京都民1300万人の医療の最高責任者としての在任10年はまさに波瀾万丈だったに違いないが、疲労感は皆無だ。今後も大所高所からの活躍が期待されている。(OJ)
四川よだれ鶏
ザ・プレミアム・モルツの深いコクと好相性の一皿は、麻・辣・酸の絶妙なバランスが魅力。紅油ベースの香り高い特製ソースが、しっとりと柔らかく仕上げられた伊達鶏の胸肉の旨味を引き立てる。
全聚徳 新宿店
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