
「あの先生は患者の話をよく聴いてくれる」というのは、医師にとって最高のほめ言葉だろう。しかし、「医者が話を聴く」ということには患者、医師双方に思わぬデメリットもある。今回はそういう話をしたい。
現在、へき地の診療所でプライマリ・ケアを担っている私にとっての悩ましい問題に、「患者が長く抱えてきた心理的な問題をどこまで聞くか」ということがある。そうは言っても分かりにくいだろうから、架空の症例を挙げながら具体的に説明しよう。
スエさんは80代半ばの女性。高血圧症と季節の変わり目の気管支喘息で、長年通院している。それらの疾患のコントロールは良好だ。ある時、受診したスエさんは、ふと「私にもいろいろあったから」とつぶやいた。「どうしたんですか。何かありましたか」と水を向けると、背筋をのばして視線をまっすぐにこちらに向け、自分の胸に手を当てて言った。
「先生、私はここにね、いっぱいいっぱい言いたいことがたまってるの」
カルテの記録を見ると、スエさんはそれまで普段の受診でそういった胸のうちを語ることは少なかったようだが、私が同性ということもあり、「今日は話そう」という気持ちになったのかもしれない。
「良かったら少し話してみませんか」と言うと、せきを切ったようにスエさんは話し出した。結婚してから姑の意地悪によって苦労したこと。子育てをしながら家業の農作業を続け、くたびれ果てる日々だったこと。そんな中でも、介護職についた次女とは気が合い、その帰省だけが楽しみだったこと。ところが、次女は40代半ばで乳がんで亡くなってしまったという。
「子供は後2人、長女と長男がいる。次女のことで嘆き悲しんでばかりいるのはその子たちに申し訳ないから、口では“仕方なかった”と言っている。でも、仕方なくなんてない。次女がかわいそうで、5年経つがいまだに納骨もできない。私が代わりに死ねば良かった」
ハンカチで目を押さえて泣き続けるスエさんに、どう言葉をかけて良いかも分からなかった。同時に「ちょっと聞き過ぎたのではないか。“言いたいことがいっぱいある”と聞いた時点で、“じゃ、またそのうちに”と話を打ち切るべきではなかったか」とも思った。
「傾聴」にも“副作用”がある
へき地とはいえ、一般外来には数十人単位で受診者が来るので、1人に費やせる時間は限られている。スエさんが一気に語った人生の話をうまく引き取り、整理し、肯定的に評価するだけの時間や心のゆとりはとてもない。ただ、ここまで深刻な話になると、一方的に話をさせて、後は聴きっぱなしというのはあまりに危険だと考えられる。
精神医療を専門としない医療職が患者の話を聴く時は、「受容・共感・傾聴」を柱とする米国のロジャーズ派のカウンセリング技法を用いることが多いだろう。「クライエント(来談者)中心療法」と呼ばれるこの技法では、患者自身の回復力や自己実現に信頼が寄せられ、治療者はあくまでそのための環境を整える黒子として、患者の話に耳を傾け、共感を示すのである。
このロジャーズ派のカウンセリング技法は、精神分析などの特別なトレーニングを受けていない人や非医療職にも実施可能なので、今では医療を超え福祉、介護、教育などでも広く用いられている。ただ、そこにもいわゆる“副作用”があることを、日本医科大学医療心理学教室の教授だった精神科医の故・野村俊明氏が論文に記している(2015年発行『精神神経学雑誌』117号「ロジャーズ派の精神療法およびカウンセリングの副作用」)。
この論文で野村氏は、たとえば「共感的理解」や「受容」には「患者は受容されることによって自己肯定感をはぐくみ、それが変化成長を促す」という意義もあるが、同時に次のような“副作用”もあるとする。論文から引用しよう。
「際限のない受容や共感は時として患者の病理を増悪させうる。治療者への限りない依存や幻想を生み出しかねないし、患者の退行を引き起こすことがある。対等な立場の強調は治療者—患者という関係を曖昧化させ様々なトラブルの要因になりかねない。治療者は枠組みを作ったり、患者に何かを教えたり指示したりしなければならないこともある。受容的な態度は時と場合によっては、患者を混乱させたり逸脱行動に導いたりすることがありうる」
また、患者自身の自己実現を待つ姿勢には、次のような“副作用”があると記す。
「内面への過剰な関与により必要以上の掘り下げが起こりうる。とりわけ依存的な傾向が強い患者や被暗示性が強い患者では、主訴の改善に必要とされる以上の、あるいはそれた方向への介入が結果的に起こりうる。また、自己実現のために過剰な介入が起こり患者はトラウマティックな経験をするかもしれない」
もちろん、このような“副作用”が起きるのはレアケースであり、大半の患者では特に医師が「受容・共感・傾聴」の態度をもって話を聴いてくれることがさまざまな効果や意義をもたらすに違いない。
とはいえ、スエさんの場合でも、いきなり自分の人生の核心にも触れる「次女との別れ」に話が進んだことが、「患者を混乱させたり」「過剰な介入が起こり患者はトラウマティックな経験」をしたりすることにつながらなかった、とは言いきれないのではないか。本来であれば段階的にまずは「結婚して姑に苦労させられた」といった話あたりまでで「次はまた今度」と打ち切り、子育ての苦労などを何回かにわたって聴いた後で、そのエピソードのためのみに時間を用意して「次女の死去」について語ってもらうべきであったのだ。ただ、スエさんの勢いに気圧されて、その時は「じゃ次はまた」とは私も言えなかった。
時には「聴けません」という勇気も
スエさんの次回の受診までハラハラしたが、1カ月後に降圧剤の処方を求めて来院したその顔は意外にスッキリしていた。「先生、この間はいろいろお恥ずかしい話をしちゃったわね」と笑顔で語るのを聴いて、ようやく少し安堵した。もちろん、一度の話でスエさんの心の中が整理できたわけはなく、身を切られるようなつらさもこれまでと変わりないのだろう。もしかしたら、「思いきって話してみたけど、結局、何も変わらなかった。やっぱりこれは私1人で耐えるしかないんだ」とあきらめたのかもしれない。
「先生、女どうし聴いてもらいたいことがあるんだけど」「先生、前は精神科医だったんだって? ちょっと相談していいかな?」と診察室で患者が切り出すたびに、私はドキリとする。もしかしてまたスエさんのように、心のパンドラの箱のふたが開いて中身が飛び出してきて、それから収拾がつかなくなってしまうのではないか。ほど良いところで「じゃ、今日はここまでにしておきましょうか」とうまく区切ったり、ひと通りの話が終わった後で、きちんと整理して振り返るところまで持っていく時間や、心のゆとりを確保したりできるのだろうか。もし、それができないなら「ごめんなさい、今日は聴けない」と最初から断る方が、本当はまだ親切かもしれない。
「患者の話を聴く」というのは、古くて新しい永遠の課題である。



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