
財源の当ても無いまま、「消費税率実質ゼロ」を掲げ
「責任ある積極財政」にひた走る高市早苗政権の下、円安と長期金利の上昇(債券価格の下落)が止まらない。そこで物価上昇に窮した高市首相が目を付けたのが、約300兆円に達する公的年金の積立金だ。年金資金の国債への投資比率を高める事で円建て資産を増やし、円高と債券高(長期金利の低下)に誘導する事を模索している。しかし、即座に大規模な資産配分の変更に踏み切るのはハードルが高く、政府内にも根強い慎重論が有る。
7月17日の参院予算委員会。参政党の安藤裕幹事長は、日本国債の20、30年物の利回りが3%台後半、40年物は4%台となっている事を取り上げ、「年金積立金は半分が海外に投資されているが、日本国債で運用する事も考えられるのではないか。(外国株式・債券への投資に比べ)国債なら安定的に名目収益を確保出来る」と首相を質した。これに対し首相は、「年金基金による日本の金融資産への更なる投資を後押しする方策を追求する」と応じ、年金資産を運用する「年金積立金管理運用独立行政法人」(GPIF)に国債を買い増しさせる策を検討する考えを示した。
GPIFは2025年度末時点の運用資産が総額293兆6437億円に達する。市場に於ける運用資産規模が圧倒的に大きく、少し動くだけで市場全体に巨大な影響を与える事から「クジラ」とも称される。其の世界最大級の機関投資家でもあるGPIFに注目が集まった契機は、7月17日の首相答弁の1週間前、首相とほぼ同じ言いぶりで年金資産の活用に言及した片山さつき財務相の発言だった。
7月10日の記者会見で片山氏は、GPIF等の国内の年金基金に対して国債等への投資拡大を後押しする意向を明かした。午前9時半過ぎに片山氏の発言が伝わると、10年物国債の利回りは2・86%から2・76%迄低下。為替は1ドル162円40銭水準からドル売り・円買いが進み、午前中に161円20銭台を付けた。日経平均株価も上昇し、国内市場では株、国債、円のトリプル高の展開となった。
片山氏は同14日の記者会見でもGPIFに触れた。GPIFの運用資産割合を定めているルールについて「策定時の環境が大きく変わったら適時適切に検証が行われる。不磨の大典ではない」と強調。「我々の成長戦略を強力に推し進めれば、日本円資産は有利になっていく」と述べ、年金基金に国債への投資を増やさせる事を正当化した。
高市政権は財源の当てが無いまま、「飲食料品の消費税率実質ゼロ」を掲げ、「日本成長戦略」では官民で370兆円超を投資する青写真を描く。防衛費の上積みも想定される中、市場には「財政規律が緩むのでは」との懸念が広がり、片山発言前日の7月9日には長期金利の代表的な指標となる新発10年物国債の流通利回りが一時約30年ぶりの高水準となる2・9%まで上昇した。円も日米協調介入迄は160円台の安値が続き、輸入商品の物価を押し上げている。
危機感を抱いた高市政権がこの局面で年金資産に着目したのは、GPIFが国内債券への投資を増やせば金利上昇を牽制出来、ドル売り円買いを通じて円安を是正出来ると踏んだからだ。異次元の金融緩和を終わらせる出口戦略に転じた日銀が国債買い入れを段階的に減らす中、市場の側も成長戦略の実現には国債の増発と、その新たな買い手が必要になると見て、国債の買い需要に熱い眼差しを注いでいる。
とは言え、GPIFには運用比率を5年毎に見直すルールが有り、今の比率は国内株式、国内債券、外国株式、外国債券を25%ずつ持つ様定められている。経済状況の急変時等にはGPIF経営委員会の判断で5年に縛られる事無く変更出来るが、現在の保有比率は昨年4月に定めたばかりだ。外国株式・債券の比率を大きく減らす程大量に売り、その分を国内株式・債券に投資するのは現実的ではない。
GPIFを所管する上野賢一郎厚生労働相は、7月14日の記者会見で資産の運用比率について、「必要が有れば見直しの検討を進める」としながらも、「現在の運用環境は基本ポートフォリオ(資産の運用比率)が想定しているものから大きく乖離しているとは考えていない」と述べた。早期の見直しには慎重な姿勢を示したものと受け止められている。
政治の波に揉まれるGPIF
首相や片山氏も、運用比率を大きく見直す事は難しいと判断している様だ。首相周辺によると、基本の資産運用比率が許容している「上下の振れ」の活用を探っているという。
外国株式、外国債券、国内株式、国内債券各25%という比率については、外国債券がプラスマイナス5%、他はプラスマイナス6%迄変動しても可(乖離許容幅)としている。日々の資産運用に当たって乖離許容幅というゆとりが無ければ、少し時価が動いただけで既定の比率の枠をはみ出してしまうからだ。僅かにオーバーする度に売買による調整を余儀無くされるなら手数料コストが増す。株価暴落時等に比率維持有りきで無理な売買を繰り返す事になれば、市場が大混乱に陥る可能性も出てくる。
つまり、現行のルールを見直さずとも、国内債券はプラス6%と最大31%まで割合を引き上げる事が出来なくはない。英国銀行のバークレイズは、GPIFの国内債券の保有比率が今の25%から30%になった場合、約15兆円分の国債の追加購入が可能になると試算している。市場関係者は「国内債券だけでなく、国内株式の比率も乖離許容幅内で引き上げれば相当のインパクトになる」と期待する。
GPIFは「専ら被保険者の利益のため」という資産運用の原則を掲げ、株価維持や景気刺激といった政府の他の政策目的の為に年金資産を利用する事を封じている。当然「円安の是正」等は通用しないと見られ、それでも国債の買い増しを求めるなら名目でも理由が必要になる。自民党厚生族議員の一人は「そこをクリアするのは簡単じゃない」と話す。
只、莫大な年金資産は政界の思惑から逃れるのが難しい面も有るのは否定出来ない。
14年10月、第二次安倍晋三政権の下でもGPIFは政治の波に揉まれた。この時は「脱・国債」を中心に保有資産比率自体の見直しがテーマとなり、政権は国内債券中心だった運用を株式へとシフトする事を狙った。「年金資産を株価変動リスクに晒すな」との強い批判も有ったものの、結局国内債券の比率が60%から35%に引き下げられた一方で、各12%だった国内外の株式は各25%へと引き上げられた。
この比率変更は、安倍氏の経済政策「アベノミクス」の成功を睨んだ株価対策と見做され、「専ら被保険者の利益の為」という理念に反すると指摘された。但し、政権の思惑はともかく、GPIFの資産運用は株高に乗じて好調を維持しており、25年度の運用実績は41兆3995億円のプラスと、過去2番目の高水準だった。黒字は6年連続で、比率を増やした国内株式(プラス20兆4556億円)等が寄与した。
一方で金利上昇に伴って国債は値下がりしたが、保有比率を下げていた為、3兆7207億円の赤字に止まった。安倍政権の「脱・国債」「株シフト」は、今の所被保険者に利益をもたらしている。
その点、「国債回帰」を図る高市政権の姿勢は、より他の政策目的の為の年金資産利用に映る。個人向け国債の拡充等、他にも国債の買い手探しには余念が無い。しかし国債は満期まで保有すれば元本割れこそしないものの、このままインフレが進んでいけばGIPFの購入する国債も価値が目減りし、年金資産を傷める事になる。
片山発言を受けて円安・債券安の進行に一時歯止めは掛かったが、その後失速した。日米協調介入の効果も持続が危ぶまれている。08年財政危機に陥ったアルゼンチンは民間年金を廃止・国有化し、短期的には債務不履行を回避した。しかし結局は財政の悪化と深刻なインフレを招く結果に終わっている。
GPIFは今でも円安局面では外国の債券や株式を売り、円建ての資産を買い増す事で保有資産比率のバランスを保っている。厚労省幹部は「今の経済状況で更に手を打つ必要性は感じない。政治の『困った時の年金頼み』は本当に止めて貰いたい」とこぼし、深い溜め息をついた。



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