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私の海外留学見聞録 ⑧ 〜私の尊敬するチャンス教授〜

私の海外留学見聞録 ⑧ 〜私の尊敬するチャンス教授〜

小松本 悟(こまつもと•さとる
足利赤十字病院 名誉院長
藤田医科大学 特命教授
ペンシルバニア大学(ペンシルバニア州•フィラデルフィア)

1975年に慶應義塾大学医学部を卒業しました。大学院修了後は研究者を目指し、84年より2年間、米国ペンシルバニア大学へ留学しました。その時の指導教授であるブリトン•チャンス教授は、MRIの基礎的原理を構築し、それを応用して脳のエネルギーの画像化を実用化した第1人者です。MRIに関する医学、物理系のあらゆる分野で賞を獲得していましたが、唯一取れなかったのがノーベル医学賞です。いつも自転車に乗り、ポロシャツ姿で研究室まで通勤していましたが、ノーベル賞の発表の日は、ネクタイ、スーツの正装で現れました。

チャンス教授は、白人系米国人でスポーツマンでした。52年のヘルシンキオリンピックでは、ボート競技の金メダリストです。親日家であり、家の庭は日本調で、灯篭、松、盆栽などが飾ってありました。また、家のいたるところに当時の栄光の写真が飾ってありました。研究には大変厳しく、1人1人に実験の方法、データの解析、解釈について朝早くから夜遅くまで丁寧に指導をしてくれました。研究室には世界各国から100名以上の若手研究者が集まり、研究棟には24時間365日灯りが点いていました。日本人は私だけでした。

私の実験は「中大脳動脈閉塞モデルを用いた脳エネルギー代謝の研究」でしたが、始めはなかなか実験が軌道に乗らず、英語も通じずで厳しい日々でした。毎週水曜日の夕方は、若い研究者たちが1人ずつ1週間のデータをプレゼンテーションすることになっていましたが、研究室の皆は、私を含めた若手研究者に厳しく質問をしてきましたので、実験モデルが組み立てられなかったりデータが出なかったりすると、3〜6カ月で去っていく人も多くいました。幸い実験は半年後より軌道に乗り、助手が1人付きました。東南アジアの出身で、家族とともに1週間飛行機を乗り継いでやって来ました。空港まで出迎えに行きましたが、荷物はありませんでした。白いワイシャツの襟には、何重にも汗の跡が染みついていました。手持ちのお金は100ドルのみで、給料を1000ドル前借りしていました。彼は朝早くから夜遅くまで実験の準備と後片付けをし、中大脳動脈の閉塞モデルをどの様にして作るかを、私の手技を見て修得しました。私は留学を2年ほど延長したいと日本に申し出ましたが、結局研究室を後にし、足利赤十字病院に勤務することになりました。

96年、チャンス教授がすでに82歳の時、フィラデルフィアを訪れる機会がありました。留学時代の助手は、私の帰国後、閉塞モデルの手技を以て製薬メーカー研究所に就職し、プール付きの一軒家に住んでいました。彼は私にとても感謝していました。

教授は、以前と同じ研究室で、同じように机に座り、研究室から出る全ての論文に当時と同じ万年筆で修正•加筆をしていました。彼の座る机の後ろの棚には、私の31P-MRSの論文ファイルも並んでいました。訪問を大変喜んでくれ、懐かしい思い出話もしましたが、当時の研究データについてもなお幾つか質問をしてきました。フィラデルフィアの街は当時と何1つ変わっておらず、楽しい3日間でした。そして2010年11月16日、ブリトン・チャンスは現役教授のまま、97歳で他界しました。

私は長い間、足利赤十字病院の院長として経営管理の仕事をしてきました。その内容は、チャンス教授の下で当初目指した研究者としての道とは異なりますが、そこで得た研究の厳しさ、体験、経験があったからこそ、院長業に専念できたと考えています。

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