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慢性腎臓病を抱えて腎臓内科を天職とする

慢性腎臓病を抱えて腎臓内科を天職とする

村上 穣(むらかみ・みのる)1979年東京都生まれ。2004年東京慈恵会医科大学卒業。佐久総合病院で臨床研修を受け、現在は腎臓内科副部長。


JA長野厚生連 佐久総合病院(長野県佐久市)
腎臓内科副部長
村上 穣/㊤

 佐久総合病院腎臓内科の村上穣は、腎臓移植を希望する患者の訴えに、誰よりも親身に耳を傾ける。自身が慢性腎臓病患者として母から腎臓の提供を受け、今日がある。しかし病を受け入れられるまでには、30年の葛藤があった。

小学生のとき逆流性腎症が発覚し食事制限開始

 1979年、村上は東京に生まれた。父は会社員で、2つ年上の兄と共に腕白な幼少期を過ごした。小学校2年生で健康診断を受けると、尿検査で蛋白が出ていると指摘された。

 母親と受診した大学病院で、「逆流性腎症」と診断された。尿が排泄される際に逆流を防止する機能が先天的に不十分で、慢性化した炎症は腎実質にまで及んでいた。

 膀胱と尿管を新たにつなぐ手術を受けたが、既に正常の半分以下の機能しかない腎臓を再生するのは不可能だった。以後、慢性腎臓病を抱えて生きていくことになった。

 自分の体に起きていることをはっきり理解できたのは、それから10年後、医学生になってからだ。一方、生活上の変化にはすぐ直面した。まず、学校給食が食べられなくなり、1人だけ弁当を持参した。蛋白質や塩分を減らすだけでなく、米飯も低蛋白の物にしなくてはならず、家には専用の2号炊きの小さな炊飯器があった。母は、村上が家を離れるまで腎臓病食を作り続けてくれた。

 体調は悪くなかったが、激しい運動は悪影響があるとされ、体育の授業は見学した。腎機能の悪化に伴い血圧も上昇し、小学4年生で血圧は140mmHgを超えた。降圧薬も飲み始めた。

 中学進学にあたり、両親は近所の私立中学の受験を薦めた。私学なら、全員弁当を持参するので、疎外感を感じることもない。村上は、自宅から自転車で15分で通える中高一貫校に入った。体育の授業には、ある程度参加しても良くなったが、運動系の部活動は禁じられた。文化系の釣り部に入って、休日は仲間たちと連れ立って釣りに行った。のびのび6年間を過ごした。

 大学までエスカレーター式に上がることもできたが、将来の進路について考え始めた村上は、漠然と医師を思い浮かべた。もう10年近く定期的に医療と向き合っており、理想の医療について思いを巡らした。身内に医師はいないが、「医学部に行きたい」と切り出すと、両親は異を唱えなかった。医師がそれなりにタフな仕事であることについての実感は、村上にも家族にも乏しかった。

 現役で東京慈恵会医科大学に合格した。私立医大としては学費は低めだが、サラリーマン家庭には負担だ。それでも、地方の国立大学に入学した際の費用や、下宿で親の目を離れる食事や生活のリスクもある。両親は、浪人してまで「国立を目指せ」と言うこともなく、背中を押してくれた。

 希望通り医学生となったが、ここで“人生のどん底”を味わう。子ども時代は、自分の病気を詳しく理解できなかったが、医学の知識を蓄えるにつれて、先行きが大いに不安になった。教科書を開けば、逆流性腎症の記述がある。いずれ進行して慢性腎不全に至れば、血液透析を余儀なくされる。透析患者の5年生存率は6割ほどしかない……。村上は衝撃を受け、思いは千々に乱れた。

 「僕は5年後には生きていないんじゃないかと誤解をして、どん底だった。まだ医学部2年生だったが、医師になるのをあきらめようとさえ思った」

 腎機能の値も人並みの半分である自分が、責任の重い医師としての職務を全うできるかどうか全く自信が持てなかった。両親を含めて、誰にも本音で相談することはできなかった。うつうつとして、一時は大学も休みがちになった。結局、時間だけが解決してくれ、初心を次第に取り戻していった。

 「もっと落ち込んでしまえば、休学したり、医師になることをやめたりしていたかもしれない。そこまでいかなくて本当に良かった」

「もっと患者の生活にまで入り込んだ医療がしたい」

 高校までは小児科を定期的に受診していたが、大学入学を機に慈恵医大の腎臓内科に切り替えた。大学の医療は専門性が高く、細分化されていた。村上は、医師としてもっと広い方向を模索した。自分自身が受けた経験は乏しかったが、地域医療、訪問診療がキーワードで、その道を探った。

 信州に上医あり——長野県に、地域医療の牙城とも言うべき、熱心な病院があることを知った。現在の勤務先である佐久総合病院だ。

 慈恵医大のカリキュラムには、6年時に選択実習があり、1カ月間自分の選んだ病院で実習して単位を得られる。慈恵医大の専門診療科で学んでも良いし、海外に行くこともできる。村上は、佐久総合病院に打診すると、春と夏に1週間だけ見学を認めているという。1週間の見学には参加せず、1カ月の実習を頼み込んだ。熱い胸のうちを吐露する手紙を書いた。

 思いは遂げられ、総合診療科の医師だった川尻宏昭に受け入れられ、1カ月のとても有意義な指導を受けた。熱い医師たちと運命的な出会いをしたことで、卒業後もここに来ようと誓った。

 卒業を控えた3月に実施される医師国家試験は、医師になるための最後の難関だ。夏まで運動のクラブ活動をやって半年で追い込みをかけるような受験勉強は、体力的に厳しい。5年生の頃からコツコツと勉強を始め、睡眠時間を削ることなく、難なく国試を突破した。

 医学部を卒業した2004年は、各科を回って2年間学ぶ新臨床研修制度が導入された最初の年だ。村上は佐久総合病院を研修先に選び、受け入れられた。

 大学時代から医師や医学生に囲まれて、自分の病気を包み隠さず生活ができたことは幸運だった。佐久では研修中から、腎臓病用の病院食を食べることもできた。病を知った上で受け入れてもらったが、夜間当直が始まると、体に堪えた。2年間の研修中、腎臓内科を目指そうと決意を固めた。

 「自分の病気を強みに変えられ、自分が患者として経験したこともすべて役に立てられる」

 東京に戻らず、引き続き佐久で継続した。意欲に燃えていたが、腎機能の数値は、緩やかながら悪化していた。夜間の当直は免除してもらった。卒業後の主治医は、自院の内科腎臓部門の医長だったが、村上が佐久に赴任して5年が過ぎる頃、「そろそろ次の治療、透析か移植を考えないといけない時期にさしかかっているね」と告げた。いよいよ想像していた未来が現実になろうとしていた。

(敬称略)

 

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