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未来の会

第203回 患者のキモチ医師のココロ
村上春樹氏が新作で描く「理想の医師像」

第203回 患者のキモチ医師のココロ村上春樹氏が新作で描く「理想の医師像」

 今や世界的なベストセラー作家の村上春樹氏が、3年ぶりに長編小説を上梓した。タイトルは『夏帆 The Tale of KAHO』。若い女性絵本作家が主人公の物語だ。

 このコラムでこの新作を解説するつもりはないのだが、1つだけ医師の読者にも関わりがありそうな点を紹介したいと思う。それは、主人公・夏帆の父親が、小児科医院を営む医師であるということである。

 「夏帆」という名前は、父親が三晩連続してヨットで夏の海原を滑走している夢を見たことからそう名付けられたという。その後、父親について初めて言及するくだりが続く。では、その箇所を引用してみよう。

 「夏帆の父親は埼玉県浦和市(今のさいたま市。そう、海洋とは縁もない内陸の地だ)で小児科医を開業していた。近所に最新の医療機器を備えた大きな総合病院があったために、それほど繁盛していたわけではないが、穏やかな人柄で、対応も丁寧だったから、近所での評判は良く、一家が不自由のない生活を送れる程度には『顧客』がついていた」

 物語では、この父親は50代ということになっていたから、老医と言うにはほど遠い年齢のはずだ。ただ、競争心や野心とは無縁の性格らしく、引退した知人医師から譲り受けた住居兼医院で黙々と働く姿は、60〜70代の“昭和の医師”を彷彿とさせる。

 母親とはどことなく折り合いの良くない夏帆も、父親のことは尊敬しているという。

 「少女時代、父親は小児科医としての日々の仕事が忙しく、しょっちゅう往診に呼ばれて飛び回っていて、娘とのんびり親密に関わるような余裕も持てない生活を送っていた。家族旅行に出かけた覚えもない。それでも彼女は父親に対して一貫して自然な親しみを感じていたし、その熱心な仕事ぶりに、口にこそ出したことはないけれど尊敬の念を抱いていた。口数は少ないが、親切で穏やかな性格の人物だ」

 母親は1人っ子である夏帆に医師になってもらいたい、と期待していた。一方で父親は娘の将来に対して具体的な願望を語ることはなかったようだ。ただ、久しぶりに帰省した娘との会話で「絵描きとしての仕事も見たところ順調に運んでいるみたいだ」と言うところを見ると、娘の仕事ぶりをそれなりにフォローし評価もしているように思える。実際に妻に原因不明の体調不良が現れた時には、点滴をしようかと検討もする。家族に無関心というわけではないのである。

“深刻な病”を経験したという村上氏

 穏やかで真面目。それ以外にこれといって特徴のない父親は、物語の中で派手な役回りを担うわけではない。というより、登場人物の中で1人だけ“蚊帳の外”の存在と言っても良い。夏帆や妻が大変な状況に巻き込まれても、それに気付いているのかいないのか、父親はやはり淡々と診療と生活を続けるのである。

 全体としてはファンタジーに近いこの物語になぜこのような父親が必要だったのか、そしてなぜ父親の職業は医師でなければならなかったのか、としばし考えてしまった。そして、最近、公表された村上氏の発言を読んで1つ思い当たることがあった。新聞社の編集委員によるインタビューで、村上氏はこう言ったのだ。

 「僕はこれまで入院するような大きい病気をしたことがなかったけど、今回ちょっと体をこわして、入院したんです。体重が17キロ落ちて、書く気持ちがまったく起こらなくて。もう一生書けないのかなと思ったこともあった。でも退院して、運動して、体重を戻したら、すごく書きたくなったんです。やっぱりうれしかったのかなと思うんですよね。どんどん話が出てきて、よどみなく書けた」(朝日新聞2026年7月3日付朝刊)

 プライベートについて話すことはほとんどない村上氏だが、この「入院して体重が17kg落ちた」というエピソードはいくつかのインタビューで語っている。米紙には「24年に深刻な病気で1カ月間入院し、その際に体重が大幅に落ちた」とも語っている。この入院が日本でのことなのか、拠点としている海外のどこかの国なのか、病名は何か、手術は受けたのかなどは分からない。ただ、いずれにしても、「ダイエットのために『教育入院』して体重を減らした」など、自ら望んでそうしたわけではなさそうである。

 この入院や闘病の生活は、その後に大部分を執筆したという『夏帆』にも影響を与えているのは確かだろう。そして、作者自身の主治医がどのような人であったかは全く分からないが、今回の作品に出てくる「実直で誠実、寡黙だが感情が安定しており、業務拡張や収入アップなどにはあまり興味がなさそうで職務に忠実な医師」というのは、もしかすると村上氏にとっての理想の医師像なのではないだろうか。

古典的だが良心的な医師像

 実家を訪れた夏帆に「最近は夜の往診なんかもまだやっているわけ?」と尋ねられた父親は、こう答える。

 「いや、夜の往診はさすがにもう断るようにしている。そんなことしていたらとても身体がもたないからね。そりゃ若いときとは違うさ。しかし病状が深刻そうだと、むげに断るわけにもいかない。場合によっては腰を上げることもある。生死に関わるかもしれんことだからな」

 その時も実は夏帆や母親は大変なトラブルの真っ最中にいるのだが、それにも気付かない父親のその言葉は、夏帆の心に深く刺さる。

 「真面目な人なのだ。自分の仕事を何より大切に考えている。ひょっとして夜の往診があるかもしれないと思って、夕食のときに酒類を口にすることも控えている。酒は好きな方だが、夕食前のビールも小瓶を正確に半分飲むだけで、あとは残す(残った半分は夏帆がもらって飲んだ)」

 真面目であること。仕事を何より大切に考えていること。「理想の医師像」とは言ったが、村上氏が医師に求めているのは、恐らくこの2つだけなのかもしれない。

 そして、もう一度、丹念にこの新作を読み直すと、現実世界と夢のような世界を行き来したり、その境界があいまいになったりという、いつもの村上春樹ワールドの中で、この古典的で良心的な医師である父親は安定の象徴になっており、右往左往する家族にとって、錨の役割を果たしていることが分かる。

 医師は、世の中の、あるいは多くの人たちにとって、いつでも変わらない信条や職能を守り続ける、錨としての存在であってほしい。これもきっと、村上氏が医師に期待することなのかもしれない。

 現実を見渡すと、医師はどんどんそれとは離れていっているようだ。時折届く医師の転職情報にも「収入アップ」「当直からの解放」「残業なしで自由時間たっぷり」との誘い文句が並ぶ。それになびく医師が多いということは、その価値観も変わりつつあるということだろう。

 村上氏が描くこの古風な開業医に共感できるか。それともやっぱり「前時代の遺物だよ」としか思わないか。普段は彼の読者ではない医師たちにも、ぜひ読んでもらいたいと思っている。

 娘や妻に対する、やや距離を置きながらもそれなりに愛情を持った夏帆の父親の態度は、いつでも揺らぐことはない。

 

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