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未来の会

第8回 私と医療 ゲスト 堤 治

第8回 私と医療 ゲスト 堤 治

 

堤 治(つつみ・おさむ)①生年月日:1950年5月29日 ②出身地:埼玉県秩父市  ③感動した本:マイケル・ファラデー「ロウソクの科学」、森鴎外「最後の一句」、渡辺淳一「遠き落日」④恩師:坂元正一先生(東京大学産科婦人科学教室・教授)、佐藤和雄先生(東京大学産科婦人科学教室・助教授:後日本大学教授) ⑤好きな言葉:「鬼手仏心」、「禍を転じて福と為す」、「上り坂があれば下り坂もあり、まさかと赤坂もある」⑥幼少時代の夢:分子から原子、素粒子と物質の真理を極める、生命の不思議を解明する ⑦将来実現したい事:子宮内膜症の腹腔鏡下手術の完成 手術侵襲による妊孕性低下を防ぐ、超音波収束装置による「大きく切る」から「小さい傷」そして「切らない治療」への進化、「卵子」と「子宮内膜」研究の深化 基礎と臨床の両面からアプローチし、特に再生医療PRPの応用で不妊治療の成績向上を図りたい。 

幼少時代

 昭和25年5月29日、父堤彪、母敏子の長男として埼玉県秩父市に生まれました。体重が4キロで、生まれる時から母には苦労を掛けました。後に自分自身の出産が難産で、鉗子分娩であったと聞き、産婦人科の先生の有難さに畏敬の念を抱きました。

 家は代々織物業を営んでおり、子どもの頃は家業を継ぐものと思っていました。その後自分の進路を自身で決める事が出来、2人兄弟の弟浩二も医師になり家業の織物業は父の代で終わらせてもらいました。

 子どもの頃伝書鳩を飼っていて、近くの山や川へ自転車で出掛けて行って、鳩を離し、飛んで帰って鳩と競争していました。20羽位飼っていましたが、鳩の卵がかえるのを見守り、生まれると大事に育てる事も私の仕事でした。対象が鳩から人間に変わりましたが、卵を大事にする仕事は同じだなと思いますね。ちなみに私は鳩の顔で性別が分かります。

中学高校時代

 中学になると三峰山の麓にある白久スケート場で何時間も滑っていましたね。野山を駆け巡る中でも勉強も忘れず、成績は良い方でした。中学の音楽の先生にスカウトされコーラス部で歌い、コンクールにも出場しました。結果は芳しくありませんでしたが、歌う事の楽しさを知り高校でも続けました。お陰様で今もカラオケは得意で、高得点を出せます(笑)。

 小学校・中学校は地元の公立学校でしたが、高校は埼玉県立熊谷高校に進みました。明治28年の開校以来男子校で地元では名門です。質実剛健で自主性を重んじる校風でした。高校では、物理と数学に興味を持つようになっていました。朝永振一郎先生のノーベル賞受賞にも影響され物理学者を目指そうと思っていました。

 熊高時代に古文や漢文をよく諳んじていました。平家物語や長恨歌等です。百人一首はフォトグラフィックメモリーという言葉がありますが、一首1ページ挿絵ごと覚えました。森鷗外先生の「舞姫」や「最後の一句」も好きでした。自分の子どもの名前に森先生の林太郎を頂きました。先生は東大医学部の卒業生でもあり、私が東大に憧れた1つの理由です。 

大学受験……そして東大へ

 大学受験の昭和44年は70年安保の学生運動で揺れていました。東大入試が行われるのかと心配でした。テレビで刻々と伝えられる「時計台放送」や加藤総長代行の姿が今も記憶に蘇ります。入試中止の一報はショックでした。私はあの日の鮮烈な思いを忘れず生きています。

 大学では物理学と決めていましたが、学生運動で揺れる中、物質を分子、原子、素粒子と究めていって何が残るか悩みだし、自分は生命を学ぼうと思うに至りました。東大は無くなるという報道もあり、別の国立大学の医学部へ入学する道を選びました。しかし翌年入試が再開するということを聞き、チャレンジする事を心に決めました。今思うと若気の至りですが、再受験を許してくれた両親には感謝しています。

 翌45年の入試は無事に行われ、東大理科三類に入学する事が出来ました。駒場では東洋医学研究会、医学部ではスケート部を創設し、軟式テニス部では寺本民生先生、武谷雄二先生、スキー部では横畠徳之先生、ゴルフ部では渡邊五朗先生、癌の会では辻省次先生等多くの方々にお世話になり、部活に明け暮れる学生生活でした。

いよいよ医師として

 昭和51年に医学部を卒業し、故坂元正一先生の医局に入り、出産や手術に没頭し、多忙ながら楽しい研修生活でした。超音波の大家、穂垣正暢先生がいた都立大塚病院や手術の名人菅生元康先生の長野日赤で指導を受けた事が現在の自分の臨床の支えになっています。

 研修医時代の昭和53年(1978年)、世界初の体外受精成功のニュースに大きな驚きと感動を覚えました。そこで研究テーマに卵子や初期胚を選び、佐藤和雄講師や脳研生化学の加藤尚彦助教授から指導を受けました。その後、米国NIH(アメリカ国立衛生研究所)留学の機会を頂けたのも幸いでした。EGF(上皮成長因子)の生殖機能への影響を研究し、成果はサイエンス誌等に掲載され、研究に弾みがついたと思います。

 その後体外受精の臨床や研究は日本受精着床学会と歩んできたように思います。学会理事長も務めさせて頂き、少子化の進む日本で体外受精児年間5万6,979人(生まれる子どもの15人に1人)の重さを嚙み締めています。菅総理が不妊治療に力を入れる今日、自分に何が出来るか自問しております。

 腹腔鏡下手術との出合いも、大きな転機でした。平成の初期新しい術式を開発し、適応範囲を広げ、患者さんに感謝される日々は臨床医としての最高の幸せです。日本産科婦人科内視鏡学会の理事長と同時にアジアパシフィック婦人科内視鏡学会の理事長も経験し、国内外の腹腔鏡の普及に貢献出来たと自負しております。

 産婦人科医として最も記憶に強く残っているのは、東宮職御用掛として、皇后雅子様(当時妃殿下)の愛子内親王ご出産に主治医として立ち会った事です。特に宮内庁病院をご退院の折、「お産がとても楽しかった」と仰って頂けたのが印象的で、そのお言葉を励みに、楽しいお産を目標に産科医人生を送っております。

 国際医療福祉大学は日本有数の医療福祉の総合大学で、故開原成允大学院長のご指導を頂き2008年グループ病院の現職に就く事になりました。そして今、一般外来や不妊治療、腹腔鏡下手術、妊娠や出産の現場で多くの患者さんを診ています。子宮筋腫、子宮内膜症の腹腔鏡下手術に帝王切開、1人で1日に3件行う産婦人科のハットトリックも珍しくありません。難治性不妊に対する再生医療PRP療法も日本で初めて着手し好成績を上げています。

 山王病院は地域医療の担い手でもありますので、患者さんをご紹介頂ければ嬉しくお待ちしております。「生殖医療に休日なし」でリプロダクションセンターは土日祭日も開いており、私も「月月火水木金金」で頑張っております。

インタビューを終えて

驚くほどの記憶力を持ち、多彩な話題を洒脱な会話力で披露する。多忙な時間の中でも自分の自由な時間を生み出す姿勢に感服した。患者に安心感を与え、患者満足度を高める。人気の秘密は人間的魅力だと知った。東大から現職と日本最高峰の場で活躍が続く。少子化問題は深刻だが日本の未来を救ってくれるに違いない。(OJ)


 TWO ROOMS グリル|バー
 東京都港区北青山3-11-7 Aoビル5F
 03-3498-0002
 11:30〜14:30(L.O.) 18:00〜22:00(L.O.)
 ラウンジ・バー 11:30〜翌2:00(日曜日 〜22時)
 不定休


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