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未来の会

患者の「より良い生」をIVR治療で支え続ける

患者の「より良い生」をIVR治療で支え続ける

荒井保明(あらい・やすあき)1952年東京都生まれ。79年東京慈恵会医科大学卒業。愛知県がんセンター放射線診断部部長、国立がんセンター(現・国立がん研究センター)中央病院放射線診断部部長などを経て、2012年同病院長。16年から現職。14〜17年、日本IVR学会理事長。


国立がん研究センター 理事長特任補佐
中央病院放射線診断科・IVRセンター医師
新井 保明/㊦

 愛知県がんセンターの放射線科に赴任して3年目、35歳の荒井保明は思わぬ針刺し事故からB型肝炎を発症。劇症肝炎への移行を覚悟していたが、入院10日目、ようやく数値が低下し急性肝炎で留まる気配が見え始め、深い安堵感に包まれた。

 在院日数が厳しくなる前ののどかな時代、こうなると、日々の検査のための採血を除けば、肝臓や全身状態が回復してくるのを待つばかりの気楽な入院だ。そこで、修行中の身にまたとない機会と捉え、博士論文を仕上げることにした。既に、がんを専門に据え、インターベンショナル・ラジオロジー(IVR、画像下治療)治療に没頭していた。書き上げた「肝動注化学療法のための左鎖骨下動脈経由肝動脈挿管法についての研究」により、1990年に名古屋市立大学から医学博士号を授与された。40日間の入院後、退院の日を迎え、復職した。健康を取り戻した荒井にとって、肝炎は単なる既往の一つとなった。

まず患者の生い立ちを確認する

 発症前後で一つだけ大きく変わったことがある。患者と向き合う際、どこで生まれてどこで育ったのか、生い立ちをまず確認するようになった。それは、自分が入院直後に死の影に怯え、病院を脱走したいと思うほどに、生まれ育った東京への望郷の念が募った経験からだった。

 残念ながら、IVRが根治術となる患者は限られており、そうでない患者は死と向き合うまでの時間が短い。亡くなる場所を意識せざるを得なくなるのだ。本当に患者が最期を迎えたいのはどこなのか、時には自分の経験談も交えて話すようにしている。死に直面した患者の気持ちに配慮し言葉を選びながらも、患者の希望に寄り添う。

 事故後、針刺しに対して慎重を期さなくてはならないと肝に銘じた。感染事故の予防に努めることは医療者の義務だ。とは言え、近年の何でもマスクや手袋をすればいいという風潮に、少し疑問も感じている。「手袋をはめられた手で身体を触られるのは決して気持ちの良いものではない。人の肌の温もりは手袋をしていては伝わらない」。また、マスクも患者の側から見れば違和感があり、病院の受付にマスクをした職員がズラッと並んでいるのは、異様な光景でもある。後に病院長になった時は、「インフルエンザの流行期を除き、不要な場合のマスク着用は控えるよう」と呼び掛けた。

 さて、荒井は1997年に愛知県がんセンター放射線診断部部長になり、2004年には国立がんセンター(現・国立がん研究センター)中央病院放射線診断部部長として、故郷・東京に戻ってきた。2012年に中央病院長となって、病院の舵取りという重責が加わり、さらに2014年には日本IVR学会の理事長となり、どちらも精力的にこなした。

 2016年に院長職を外れたが、国際学会への招聘が年間20件以上と多忙は続いた。2017年夏、インドで開催される国際学会への渡航数日前、これまで経験したことのない猛烈な腹痛に襲われた。文字通り七転八倒で、床をかきむしらんばかりの痛さだった。いくつか検査をしたものの異常はなく、痛みも消えたため予定通り旅立つつもりでいた。しかし、出発前夜、再び痛みが襲った。深夜2時、隣接する官舎から這うようにして病院へ行き、自分で超音波検査をした。それまで見られなかった胆管拡張が見られ、閉塞性黄疸は明らかだった。「小さな胆石が原因」と診断を付けた。

 夜が明け出勤してきた同僚医師に、内視鏡下に乳頭切開術をしてもらうよう頼み込んだ。カメラを十二指腸に挿入し、乳頭を切開して胆石を除去する治療だ。出発を午後に控え、半ば命令に近い“緊急手術”だったが、診断通り小さな石が流れ出し、処置は終了。なんと、そのまま成田空港に向かった。

 しかし、ラウンジで搭乗を待つ間にまたも激痛が襲った。切開直後の乳頭の浮腫が原因と判断。「そのまま気圧の低い上空に上がれば気絶する」と判断し、やむなく、タクシーを飛ばして病院に戻った。途中、同僚に、もう一度内視鏡処置でチューブを挿入するよう、強引に依頼をした。治療直前には、「明日、インドに行くから入院はしない」と言っていた。

 ところが、麻酔が覚めると、そこは病室だった。学会はインドの親友医師からの依頼で五つの講演が予定されていた。荒井は、翌朝6時に関係者に直接電話を入れ、説得の上退院し、1日遅れでインドに飛んだ。五つ予定していた講演は、初日の一つができなかったものの、残り四つをこなし、無事帰国した。医師が病気になった時の典型的な我がまま患者であったが、海外との約束は果たした。

 それに先立つ2013年夏の病院長時代、重要な会議のため急いで会場に向かっていた時、折悪しく雨で床が濡れており、滑って転倒した。反対の足で立ち上がりはしたが、全く歩けない。病院長の一大事と、ただちに3台の車椅子が現場に到着した。CT検査で大腿骨頭がはまる寛骨臼の周囲の骨盤骨に無数の骨折が確認された。骨がずれていないことが不幸中の幸いだったが、固定も難しい部位であり、整形外科医は「ここで無理すると、一生山には登れなくなる」と脅かした。

 それでも、翌日には退院を申し出ると、主治医は、「先生は、そう言うと思っていた」と笑った。1週間は官舎で過ごし、2週目から車椅子で院長室へ通勤。3週目には松葉杖で、4週間目から松葉杖なしで、そろりそろりと出勤した。いずれにせよ驚異的な回復ぶりだった。2カ月目、既に秋が始まっていたが、一人で山に登ってみた。冷雨と吹雪には参ったが、足は動き、山には登れた。 “武勇伝”と言えば聞こえがいいが、「転倒したのが患者でなく自分で良かった」が院長としての本音だった。

“高額医療の拒否カード”を提案

 65歳を迎えたが、これまで大病と言えるのはB型肝炎だけだった。高齢者入りして、自分の死を身近に思う。長年がん治療の一線で働き、がんは最も慣れ親しんだ病気だ。もちろん、がんになりたいわけではないが、「脳卒中や心筋梗塞のように突然命を奪う病気に比べれば、死への準備や心構えができる点で、がんは悪くない病気」と語る。

 一方で、高額な新薬を始め治療費が膨らむことへの思いは複雑だ。「高額だからといって、人の治療を制限する権利は誰にもない。でも、僕は日本の将来を考えると、延命のための高額な治療は受けたくない。同じ考えの人は決して少なくないだろう。少なくとも、高額な治療を拒否する権利は誰にでもあるはずで、その意思を示しておく仕組みがあってもいい」。そう考えて、臓器移植のドナーカードに倣って、“高額医療の拒否カード”を提案している。

 医師になってから自ら看取った患者は1000人を優に超える。自分自身のことは「死んで100年も経てば、自分のことは誰も覚えていない。跡形も残らなくてよく、それでいい」と語る。一見、死に対する姿勢は冷徹なようだが、IVR治療を武器に、患者が「より良い生」を全うできるよう支え続ける。その情熱と眼差しは、青年医師だった頃と少しも変わりない。

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