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未来の会

第79回 医師が患者になって見えた事 63歳で希少な血管内リンパ腫を発症

第79回 医師が患者になって見えた事 63歳で希少な血管内リンパ腫を発症

医療法人いつき会
いつきクリニック一宮(愛知県一宮市)
内科医師
松下 豊顯/㊤

松下 豊顯(まつした・とよあき)1958年和歌山県生まれ。83年名古屋市立大学医学部卒業、同第1内科入局。国立療養所恵那病院、愛知県立循環器呼吸器病センター、総合大雄会病院などを経て、2018年から現職。

勤務医として大過なく過ごした後、63歳で突然の大病が襲った。新型コロナ感染症の第5波が収まりつつある2021年9月末、小さな健康上のトラブルが予兆だった。

尻や手足などに末梢神経麻痺が

松下は循環器内科を専門に据え、急性心筋梗塞や狭心症の患者を得意のカテーテル治療で救ってきた。長年総合病院に勤め、50歳を過ぎても月数回の当直をこなしてきた。60歳で、人工透析と内科診療を中心とする現在のクリニックに移り、外来や透析管理など、週5日働いていた。

その日の朝、排便を済ませると、温水洗浄便座のノズルが当たる部位が分かりにくいと感じた。トイレットペーパーで拭ったのは、自分の尻でないように思えた。落ち着いて触診してみると、肛門周囲に同心円状に知覚麻痺があった。

原因は定かでないが、神経の異常のようであり、便意や尿意が分からなくなったら困るなと、漠然と不安を覚えた。

翌日、異変は広がっていた。両手の指先だけが左右対称に痺れてきた。痺れは指だけでなく、手全体に及んでいった。松下は愛飲家で、ワインを中心に毎日の飲酒を欠かさない。神経内科は専門外だが、アルコール性のビタミンB欠乏症が生じ、ポリニューロパチー(左右対称の末梢神経障害)を起こしていると自己診断し、そこから厳格に禁酒を実行することにした。

50代半ばに差しかかる頃から、職場の健康診断で、血圧、コレステロール、そして尿酸値が高いと指摘されるようになった。それぞれ対症薬を勤務先で処方してもらい服用していた。メタボ気味の体型も気がかりだったため一念発起し、禁酒だけでなく糖質制限も行うことにした。たばこは、40歳までは日に10本程吸っていたが、禁煙して久しい。

飲酒や食事を制限して1週間が経ったが、異常はむしろ進行していた。痺れは、手だけでなく足先にも広がった。加えて、ただならぬ倦怠感に襲われた。岐阜市の自宅からクリニックまではマイカーで通勤だ。座ったままの運転に支障はなかったが、職場で歩き回り、外来で患者と話すことが、つらいと感じた。午前だけで20人以上の患者と向き合う。休み休み患者を診察室に呼び入れ、何とかその週を過ごしたが、悪化しているのは明白だった。

なお神経疾患を疑いつつも、週末に休養すれば、月曜からは元に戻るだろうと楽観視する思いもあった。その土日は終日在宅して安静を保って過ごしたが、月曜になると倦怠感が増していた。

観念し、クリニックで採血した。火曜に結果が出ると、貧血が進行し、血小板は大幅に減少していた。炎症反応のCRP値も5を超え、細胞が傷害されたこと示すLDH(乳酸脱水素酵素)の値も1300と異常に跳ね上がっていた。「末梢の神経だけでなく、全身に何らかの異変が起こっているようだ。全身性の自己免疫疾患である膠原病、あるいは血液疾患でないか」。ベテラン内科医として直感した。外来は何とかできそうだったが、その週末に組まれていた待機当直には堪えられそうもなく、血液検査の結果を携え院長に相談した。

水曜は夕方の外来もあり、必死で乗り切ると、木曜は休みだった。水曜に再度採血し検査結果を転送してもらったが、さらに悪化しており、死を意識した。「どんどん衰弱して、このまま死んでしまうのではないか。一刻も早く診断をつけ、治療しなくてはならない」。京都で同じく循環器内科医をしている息子に電話でSOSを出した。

家族に支えられ京大病院で確定診断

松下は1958年、和歌山市内で生を受けた。父は地方公務員で、母は専業主婦、2歳下の弟がいる。手指にハンディキャップを持って生まれたこともあって、母は松下を医師にしたいと考えていた。松下も、将来は何か人の役に立つ仕事をしたいと、県下トップの伝統校、県立桐蔭高校から医学部を目指した。現役での合格は叶わず、1年間京都で浪人生活を送った。

名古屋市立大学医学部に合格し、83年に卒業すると、母校の第1内科に入局した。大学病院の研修を終え、派遣された国立療養所恵那病院(当時)には循環器内科医がおらず、難しい症例を母校の検討会で相談するうち、循環器の魅力にはまった。治療により劇的に改善することから、大きなやり甲斐を得た。進化し普及しつつあったカテーテル治療の手技を身に付けていった。

博士号を取得し、順調に循環器内科医としてのキャリアを積んだ。かつて同僚薬剤師だった妻との間には息子と娘に恵まれた。93年に35歳となり、愛知県立循環器呼吸器病センター(当時)に異動。一般診療に救急にとフル稼働した。とりわけ、循環器は救急患者が多い。また、“自主的に行う”研究活動も求められ、診療後にデータを収集するなど、十分な睡眠が取れない日々が続いた。「医師は忍耐力がすべて。どれだけ少ない睡眠で堪えられるかの勝負だ」。“働き方改革”という言葉もない時代、患者さんに万全の体調で向き合えないのは、申し訳ないと感じていた。

それ以上に、自分の疲弊の蓄積が深刻だった。若いレジデントがいれば指導がてら仕事をシェアすることができたが、1年ほどレジデントが来ない時期には、1人でこなさなくてはならない雑多な作業が積み重なった。家族と過ごす時間も取れず、燃え尽き、倒れる寸前で踏みとどまった。

2021年9月に始まった倦怠感は、その時以上だった。息子の助言もあり、10月8日金曜午前の外来を終えた後、近所の総合病院を受診することにした。病診連携室のスタッフは顔なじみで、親身に検査や診療の手はずを整えてくれた。

金曜の外来中、冷や汗が吹き出し、もはや続けられなくなった。早々に切り上げ、そのまま総合病院を受診した。血液検査、CTやMRIなどの画像検査を終えると、いったん帰宅。月曜から1週間入院して、骨髄生検を含む精密検査をした。

所見を総合すると、リンパ腫疑いとの診断だった。「一刻も早く確定診断につなげ治療を始めたい」。長らく肺がんを患っていた妻は17年に亡くなっており、それからの松下は、松下は一人暮らしで、頼みの綱は子どもたちだ。京大病院に勤める息子は、研修医時代の仲間たちとリモートの症例検討会を開いて危機を察し、早々に転院受診の段取りを付けてくれた。名古屋から京都は新幹線で35分弱だが、車内も横たわらざるを得ないほどだった。名古屋に嫁いだ娘は看護師資格を持ち、岐阜で松下の介護や家事を手伝い、病院にも付き添ってくれた。

血液のがんと言えば、研修医時代、病棟の白血病患者を担当していた。当時は延命がせいぜい、良い思い出はない。しかし薬や治療が様変わりして、固形がん以上に薬物治療が効くようになっている。ただしリンパ腫には80近くもの病型があり、薬剤も経過も異なるので、見極めが必要だ。京大病院入院から1週間、皮膚生検で、「血管内リンパ腫」と確定診断が下った。希少で診断が困難なリンパ腫という。聞き慣れない病名だったが、やっと治療に進めることに何より安堵した。(敬称略)


〈聞き手•構成〉ジャーナリスト:塚嵜 朝子 

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