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未来の会

第78回 医師が患者になって見えた事 がん闘病を経て感性を重視した医療を理想に

第78回 医師が患者になって見えた事 がん闘病を経て感性を重視した医療を理想に

岡崎ゆうあいクリニック(愛知県岡崎市)
院長
小林 正学/㊦

小林正学(こばやし・まさのり)1975年青森県生まれ。2002年富山医科薬科大学医学部卒業、名古屋市立大学外科入局。同付属病院、名古屋市立西部医療センター城北病院等を経て、10年セレンクリニック名古屋院長。22年から現職。

がん治療医の小林は、自ら進行した甲状腺がんの闘病と向き合う過程で、様々なメンターや仲間たちと出会ったことで、新たに命名した「感性医療」の道のりを歩んでいる。

がんでも幸せ 敗北者ではない

2019年3月1日、リンパ節に多発転移がある甲状腺がんが発覚。術前に執刀医から、「ここまで進行しているケースは珍しい」と最悪の可能性も告げられた。事前の病理検査(細胞診)で、進行が早く予後の悪い未分化がんではなく、乳頭がんであると判明したものの、乱れる心は、良い知らせを素直に受け止められなかった。「未分化がんだったら、死ねたのに。がんに冒され敗北者として、まだ生きなくてはならない……」

だが、とにかく目先のがん制圧に集中しなくてはならないと我に返った。標準治療だけで立ち向かうには、手強そうだった。手術までの2カ月弱、併用する補完代替医療の道を探ろうと決意した。

藁にもすがる思いだった。自身が自由診療のクリニックで10年近く手掛けてきたがん免疫治療は、自分たちがエビデンスを確立し標準治療にしようと息巻いていた。しかし、それは思い上がりに近かった。日本全国で様々ながんの補完代替療法に真摯に取り組む医師たちがいた。すぐ電話したのが、隣県にある船戸崇史のクリニックだ。

元外科医の船戸は岐阜県養老町で地域医療に取り組む傍ら、自らのがん闘病を経て、がん患者が自分を見つめ直す時間を持つ宿泊施設を同・関市に設けた。がん予防滞在型リトリートと銘打ち、大自然の中で本来の自分に帰って、自然治癒力を高めることを目指す。船戸やその「リボーン洞戸」という施設は前から知っていたが、かつての小林は意味を見出せずにいた。いざ自分ががんになると真っ先に頼り、「リボーン洞戸」に滞在して船戸の話を聞くと、心と体がほぐれていった。そこは、がんからのメッセージに耳を傾け、がん治療や予防における「睡眠、食事、加温、運動、笑い」の大切さを改めて認識し、生まれ代わり(リボーン)を図る場だった。

がんサバイバーの声をもっと聞きたかった。3月15日、名古屋で行われた杉浦貴之のライブに参加した。杉浦は28歳で予後不良の希少がんを宣告されるも克服し、呼吸法を学んでトークやライブ活動をしていた。隅の席で隠れるようにステージを見上げていた小林の心に、杉浦が歌い上げる「大丈夫だよ」という歌詞が刺さり、涙があふれた。最後に登場した女性コーラスは全員ががんサバイバーで、サックス奏者もがん闘病中であると後から知らされた。「がん患者もこんな幸せな表情で過ごせるんだな。がんは敗北ではない」

手術を乗り越えて

4月25日、穏やかな気持ちで手術に臨むことができた。12時間かかると言われた手術は、実際は8時間で終わった。甲状腺を全摘したのに加え、35個ものリンパ節転移をすべて切除したため、首の傷跡は20cmに及んだ。4年が経過した現在も、気圧の変化で首が締め付けられる。

何とか生き延びた。麻酔から覚めて執刀医の説明を受けると、繊細な手術をしてもらえたことが、本当にありがたかった。甲状腺がんの病期は年齢により異なる。55歳未満の小林は、遠隔臓器に転移がないことで、多数の転移があるにもかかわらず「ステージ1」だった。

術後、目に見えないがん細胞を叩く補助治療として、放射性ヨード内用療法を通院で受けた。放射線を放出するヨードのカプセル剤を内服後は、まだ幼かった子どもたちが被曝しないよう、ホテルに宿泊した。治療が一段落し、3週間休んだ末に復職した。グループの関連施設の医師たちが代診を務めてくれ、休院は最小限で済んだ。自宅療養中、まだ病気のことを理解できない子どもたちは、無邪気に父親と過ごす時間を楽しんでくれた。

自分らしく生きる道を求めて新規開業

病前から開業の道は模索していたが、がんになって、「もっと自分らしく治療ができる道を探したい」という思いが急速に募った。相談に乗ってもらっていた開業支援の会社があり、がんになったことは担当者に早々に伝えてあった。幸いにも、そのまま支援してもらえることになった。

その年の12月8日、杉浦が主宰するがんサバイバーの仲間たちと共にハワイのホノルルマラソンに初挑戦し、7時間45分04秒で完走した。

着実に復調しており、生きる喜びを実感できた。しかし、主治医から「高確率で再発・転移する」と宣告されており、その恐怖は消えなかった。時間ができると、日本中の補完代替医療の現場を歩いた。最大の目的は自分が生きるためだ。遺伝子治療や免疫療法に加えて、鍼灸や気功、ヒプノセラピー(催眠療法)、波動医学、漢方、食事療法……次から次へと治療を受け、医師を質問攻めにしても、終わりがなかった。

そんな時、心理カウンセラーである岡部明美の『私に帰る旅』という著書に出会った。岡部は大病で死に直面した経験から、意識変容こそが治療への鍵であると悟り、カウンセリングやセラピスト養成講座を主宰している。21年12月に小林もその講座を受講すると、ようやく心の平穏を取り戻した。青森の実家の母親に、自分ががんになったことを伝えることもできた。父はその半年前、小林のがんを知らぬまま亡くなっていた。

体に優しく、安心感や癒やしを患者が得られるという目指す医療の目標が定まり、開業の準備に一層力が入った。

22年4月、コロナ禍のさなか、小児から高齢者まで広く診る家庭医療を中心に据え、補完代替療法も行うクリニックを岡崎市で開院した。1.9気圧の高圧水素酸素治療も行っている。これまで以上に多忙な毎日だ。

甲状腺を切除したために、甲状腺ホルモン剤は生涯飲み続けなくてはならないが、健康面で懸念するような問題はない。定期的な血液検査で、術後の再発・転移マーカーとなるサイログロブリンの測定結果を見る時だけは緊張する。大過なく節目の5年を過ごせれば良いと祈っている。

闘病後は、まず自分のエネルギーを満たすことを最優先にするようになった。医師は利他的な職業であるが、「自分自身のエネルギーが枯渇しないよう、自分をを優先するようになった」。

がんになったことを最初は隠すつもりだったが、心を学び直したことで、公にしようと決心した。「再発して死ねば恥ずかしいという思いが勝っていたが、闘病を通じて、医師の立場を最大限に利用して得た知識や経験を伝えていく使命がある」。

メンターと呼べる人々との出会いの中から、小林が理想に掲げたのが、「感性医療」である。人間の感性に重きを置き、本当の自分に立ち返り、幸せに生きることを手助けする医療だ。「患者自身が気づいていない心の歪みを見出したら、必要に応じてプロのカウンセラーにもつなげたい」。

死を過剰に恐れることはなくなった。「自分なりに理想を探求し、同じ道を歩もうとする医師にバトンタッチしてこの世を卒業できればいい」(敬称略)


〈聞き手•構成〉ジャーナリスト:塚嵜 朝子

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