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第83回 医師が患者になって見えた事 コロナ禍に刺されるような激痛が襲う

第83回 医師が患者になって見えた事 コロナ禍に刺されるような激痛が襲う

埼玉医科大学総合医療センター(埼玉県川越市)
総合診療内科・感染症科教授
岡 秀昭/㊤

岡 秀昭(おか・ひであき)1974年東京都生まれ。2000年日本大学医学部卒業、同第1内科(現・血液膠原病内科)入局。神戸大学病院、東京高輪病院等を経て、17年埼玉医科大学総合医療センター総合診療内科・感染症科准教授。20年7月から現職。

「十字架に磔(はりつけ)になったよう」——ピーク時の痛みをこう表現する。新型コロナウイルス感染症への対応に忙殺される中、背中をナイフで刺されるような痛みが貫く。体が固まって身動きが取れないほどだったが、難病の確定診断には時間を要した。

回り道をして感染症の専門家を目指す

感染症の第一人者になるまでには、回り道があった。岡は1974年、東京都新宿区で4代続く酒屋の長男として生まれた。妹が2人いる。祖父は岡を跡取りと決めていた。酒販業は免許専売制から規制緩和が進みつつあり、父は「酒屋はなくなるから、ちゃんと勉強しとけ」と吹き込んだ。

岡は易きに流れ、そこそこに勉強し、地元の公立中学から都立の中堅高校に入学。そこで物理の面白さに開眼した。物理の教師は教え方に長け、勉強すれば点数も取れた。物理の虜になり、将来は物理の教師、あわよくば物理学者になりたいと、父に伝えた。すると、「物理学者じゃ食えない、医者になれ」と一蹴された。

商売人の父は、家では厳しかった。岡が高校3年の夏、父に末期の大腸がんが発覚し、11月に46歳で夭逝した。その少し前、母方の祖母も脳出血で亡くなっていた。生来健康だった岡は、医療を身近に感じた。そこから一念発起、死に物狂いで医学部を目指した。合格したのは、とりわけ学費が高い私学1校で、浪人した。1年後も国立大学には手が届かず、同居を望む母のため、自宅に近い日本大学医学部に入学した。父への思いは複雑だ。見返してやったという思い、生命保険金で学ばせてもらう感謝もある。

当初は、がんを専門にするつもりだったが、外科の徒弟制度的風土になじめなかった。2000年に卒業すると、血液内科(第1内科)に入局した。

病棟では日々、白血病の患者が命を落としていた。治療が限界という症例もあるが、大半が感染症で亡くなった。抗がん剤の組み合わせなどに関しての文献は多かったが、感染症の治療については、誰も明確なことを教えてくれなかった。

入局4年目、茨城の病院に派遣され、近隣で同窓の開業医の診療も手伝うことになった。高血圧、糖尿病をはじめ、頭痛、腹痛などコモンディジーズと向き合った。「自分は風邪さえまともに診療できない」と打ちのめされた。オフの時間に、内科学のバイブル、『ハリソン内科学』と向き合った。

血液内科の患者と言えば、1年で多発性骨髄腫を1人見つけただけだ。「もっと広く診られる医師になりたい」。岡は医局を飛び出して、感染症を究めようと決めた。横浜市立大学の大学院に入ったが、感染症科がないので呼吸器内科を専攻し、半ば独学で感染症にのめり込んでいった。

当時の日本の感染症科は、今では珍しい赤痢などの旧法廷伝染病を専門としていた。そんな中で、米国で修行を積んだ医師が本格的な感染症科を立ち上げ始めていた。岡は09年に大学院を終了すると、神戸大学の岩田健太郎に手ほどきを受けた。1年半ほどして独り立ちし、関東労災病院(神奈川県川崎市)に就職した。

感染症科を立ち上げる予定で準備をしていたが、外国籍で透析が必要なHIV患者の受け入れを巡り、当時の院長の了解が得られなかった。患者を差別するような病院に長居はできないと、辞表を出した。14年、東京高輪病院(東京都港区)に請われ、新設する感染症内科の部長となり、17年に埼玉医科大学に転じた。

ベーチェット疑いも生物製剤で関節炎が消えず

思い起こせば16年頃から、年に数回急激な倦怠感に見舞われ、寝込むことがあった。血液検査では異常は見つからなかった。2〜3日の休養がせいぜいで、早々に仕事に復帰した。症状は一過性であり、感染によるものかもしれなかった。パルボウイルス、パレコウイルス……いくつか思い当たる感染症もあったが、繰り返す点が合わなかった。

精力的に仕事に没頭する日々、忘れた頃に倦怠感が再燃する。思いつく限りの病気を疑った。炎症反応や筋肉の痛みであれば、CPK(クレアチンキナーゼ)が上がるはずだが、正常値だった。リウマチかもしれない。CRP (C反応性タンパク) 、 抗CCP抗体なども調べたが、いずれも異常はなかった。

20年が明けると、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が拡大した。4月、埼玉を含む7都府県に緊急事態宣言が出された。岡は4月末、子どもたちを連れて海岸に散歩に出た。その晩から、急激な倦怠感と痛みが襲ってきた。それまでの間欠的な倦怠感と似ていたが、強烈で、1週間まともに仕事ができなかった。左手の人差し指の根元にある関節が腫れていて、朝のこわばりもあった。血液検査でリウマチの反応は出ず、リウマチらしくない部位、足裏の筋膜にも痛みがあった。「全身に筋腱付着部炎がある。反応性関節炎など、膠原病の症状ではないか」。

親しいリウマチ専門医に相談すると、脊椎関節炎が疑われるという。体軸関節がメインのタイプでなく、腱付着部に痛みが出る末梢型があるという。また、皮膚疾患の乾癬には関節症状を伴うものもあり、先行して関節炎が起こる場合がある。その場合はCRPが必ずしも上がらないという。

大学の皮膚科で診察を受けたが、乾癬の兆候はないという。実は数年前から口内炎を繰り返しており、その時もできていた。それを診た皮膚科医は、「ベーチェット病かもしれない」と告げた。

ベーチェット病は、厚生労働省の難病に指定されており、口腔粘膜の潰瘍(口内炎)、外陰部潰瘍、皮膚症状、眼症状の4つを主症状とする慢性の全身性炎症性疾患 だ。それまで2〜3カ月置きに、歯茎や喉の奥などに4〜5個の口内炎ができていた。ベーチェット病に適応のあるオテズラを処方してもらうと、口内炎はピタリと止まった。

しかし、強烈な痛みと関節炎は、収まらなかった。そこで、生物学的製剤のヒュミラ(TNFα阻害薬)の皮下注射をしてもらった。なお改善せず、薬をトルツ(IL-17A阻害薬)に切り替えた。

パンデミックに重なる心身ストレス

ピーク時のナイフで刺されるような痛みに際しては、鎮痛薬を複数服用し、胃が荒れるほどだった。休み休み仕事に向き合ったが、COVID-19への対応は待ったなしで、張り詰めた毎日が続いた。当初は強毒なウイルスが蔓延し、10人診察すれば、3人は人工呼吸器を装着するレベルの肺炎だった。埼玉県の要請で中等症から最重症の患者を病院で受け入れ、感染症科ですべて診療した。院長の堤晴彦は最年長だが救急が専門で、率先して「患者を診療する」と表明し、リーダーシップを取った。岡もならって、積極的に患者の受け入れを行い、陣頭指揮を執った。どうしても体が動かない時は、部下に電話で指示を出すこともあった。専門家としてテレビなどで解説を求められる機会も多くあり、多い時には日に6本をこなした。そうした任務の合間、痛みやだるさに堪えかね、研究室の長椅子に横たわった。先の見えないコロナとの闘いもさることながら、不快な症状に確定診断が付かないことで、岡は大きなストレスに見舞われていた。(敬称略)

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