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未来の会

第87回 医師が患者になって見えた事 緩和ケア医、健康診断で甲状腺がん発覚

第87回 医師が患者になって見えた事 緩和ケア医、健康診断で甲状腺がん発覚

公益財団法人ライフ・エクステンション研究所付属
永寿総合病院(東京都台東区)
がん診療支援・緩和ケアセンター長
廣橋 猛/㊤

橋 猛(ひろはし・たけし) 1979年東京都生まれ。2005年東海大学医学部卒。東京大学医学部附属病院、三井記念病院、亀田総合病院を経て、14年から現職。

24時間、365日、病院と在宅で切れ目なく緩和医療を提供し続け、“二刀流”の緩和ケア医として大車輪の回転をしていた。45歳の春、健康診断で突然、がんを宣告された。

追加した頸動脈エコーで腫瘍の疑い

緩和ケアの入院患者が息を引き取る際は、自分の担当でなくても立ち会った。緩和ケアの実践と普及で多忙を極める中、職場の健診だけは欠かさなかった。40歳を過ぎる頃から血圧高めと指摘され、降圧薬を内服することもあった。体力には自信があったが、運動不足気味で、食事も時に不規則になり、メタボ気味の体型も気がかりだった。父は、60代で脳出血により亡くなっていた。

2023年の春の健診では、オプションで動脈硬化の有無を見る頸動脈エコー検査を追加した。当日、検査技師は、廣橋の首をプローブでまさぐり、困惑する表情をのぞかせた。伝えられたのは、「甲状腺に腫瘍がある」との所見だった。

廣橋が診る患者は、ほぼ100%ががんを抱え、がんは、何よりおなじみの病気だ。自分と同じ40代、もっと若いがん患者にも遭遇する。「自分がなってもおかしくない」との思いは常にあったとは言え、やはり自分ごとではなかった。

確定には生検を受ける必要がある。耳鼻咽喉科の医師に連絡すると、翌日の午前の診療後に診てくれるという。甲状腺がんには、進行が緩やかで悪性度の低いタイプ(分化がん)が多いことは知っていた。しかし、自分がそうとは限らない。心はざわついたが取り乱すことはなく、早めに帰宅した。いつでも呼び出しに応じられるよう、自宅は歩いて15分の距離だ。動揺を打ち消すよう、家族と最小限の言葉を交わし、早めに就寝した。

医師が多い家系から緩和ケアの道へ

廣橋は1979年、東京都港区に生を受けた。父方と母方、2人の祖父は共に医師だった。父は病理医で、開業していた実家を継がず病院で診断と研究に従事していた。3つ下の弟がいる。

医師は最もなじみの深い職業だが、親の敷いたレールを歩んだわけではない。学業に秀で、読書やテニスに親しみ、中高一貫の麻布中学に進学した。

自主独立、自由闊達を旨とする校風で、のびのび育った。高校生になると、長期の休みにバックパックを背負い世界中を放浪した。進路を定めるはずの高3の夏休みも、海外で過ごしていた。様々な国の人々との出会いに喜びを見出し「人と関わる仕事をしたい」と思い描いたが、進路を絞りきれなかった。理系クラスにいたが、医学部以外に進むのも気乗りがしなかった。

“自分探し”を続ける廣橋に、父は医師のやり甲斐を教えた。人好きの廣橋は、精神科医が向いているかもしれないと考えた。作家を目指そうかというほど文筆も好きで、父からは「医師で作家も多い」と吹き込まれていた。浪人中に、改めて医学部に目標を固め、99年に東海大学医学部に合格・入学した。

卒業前年から必修化された初期臨床研修は、東京大学医学部附属病院(東京都文京区)で受けた。放射線科にも興味があったが、後期研修は内科を専門に三井記念病院(東京都千代田区)で受けることにした。病棟で向き合うのは、進行がんで外科的切除が叶わない患者が多かった。そうした患者たちの生に向き合うのはタフな仕事だったが、廣橋は、「人生の最期に強く関わり、苦痛を和らげ、より良い生を支えること」に、やり甲斐を見出した。

当時、日本の緩和医療は充足しているとは言い難かった。20代最後の歳、これこそ自分の目指す道だと痛感。緩和ケアを学べる場所は限られていたが、亀田総合病院(千葉県鴨川市)で、米国帰りの医師から手ほどきを受けた。根治が見込めなくなった患者の希望を引き出し、とことん向き合うことは、性に合っていた。内科だが、半ば精神科のような側面もある。2年間の研修を終えて三井記念病院に戻り、緩和ケアの充実を期した。

その後、近隣の永寿総合病院が緩和ケアセンターを立ち上げると知り、14年から同センターに移った。医師2人で始めたセンターは後に4人体制となり、ここで緩和医療を学んだ後に巣立ち、地域で実践している医師もいる。

まだまだ普及啓発は道半ばだが、医師向けウェブサイトで連載を持ったり、著書を出したりと、順風満帆に思えた。

コロナ禍を乗り越えた後に

20年初頭からコロナ禍に突入し、病院の出入りや患者との接触が制限され、患者の願いを叶える緩和ケアの実践が難しくなった。3月、病院で国内医療機関において最大級のクラスターが発生。患者・職員合わせ200人以上が感染、患者43人が亡くなった。外来診療と新規入院の受け入れを停止、一時存続の危機に見舞われたが、病院OBを中心にしたクラウドファンディングが一助となった。一方、廣橋は、家族と会えなくなった終末期医療の現場でテレビ電話を使った面会ができるよう、タブレット端末を寄付するためのクラウドファンディングを立ち上げた。開始わずか半日で、目標の300万円を達成、最終的に5倍以上が集まった。

大学を出てからはテニスもやめ、Macと向き合うのが、趣味と言えば趣味だ。コロナを機にSNSにも力を入れるようになった。当初、法人のTwitter(現・X)での情報発信も一手に引き受けた。様々な医療情報を発信し、ワクチン接種の勧奨などもしたが、今では病院の広報課に委ねている。その後は個人のアカウントで、専門とする緩和医療について、一般の人や医療者に役立つ情報発信に専念した。「戸惑いや再発した時の悲痛な思いを、患者さんや家族は医師になかなか伝えられない。本音を知れるので、とても有用だ」。様々な思いが寄せられるが、診療していない人には責任が持てないので、コメントは控えている。

そしてコロナ禍が明けようとする春、耳鼻咽喉科の生検でがんの確定診断を突きつけられた。腫瘍は、左右の甲状腺、3カ所に及んでいた。幸い、進行の早い未分化がんではなく、分化がんだ。よくあるがんではないため、治療は国立がん研究センターを考えていたが、甲状腺がんの第一人者が日本医科大学付属病院(東京都文京区)にいるという。日頃から、緩和ケアが必要ながん患者を共に診ていた病院だ。内分泌外科教授の杉谷巌氏宛に紹介状を書いてもらった。自分でも調べ、周囲の医師仲間にも聞くと、名の知れた名医だ。受診し、手術加療で1週間ほど入院が必要と分かった。ただし、手術まで3カ月待たなくてはならないという。

安心できる材料は揃っていたが、家族に伝えるのが最大の難関だった。研修医時代に知り合った妻は、かつて看護師をしていた。楽観的な廣橋とは対照的な性格だ。「職場を首になったと同等の悪い知らせを伝えるには勇気が必要だった」。確定診断から5日後、「健診で甲状腺がんが見つかって……」と切り出した。妻は、廣橋に合わせて明るく振る舞っているように見えた。入院が迫り、受験を終え最後の中学生活を満喫中の息子にも、「病気で入院するけど、勉強に励めよ」と明るく伝えた。(敬称略)

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