AIやデジタル技術の進歩は私達の生活の利便性を大きく向上させた。スマートフォン等の道案内機能を使う様になって道に迷わなくなったという人も多いだろう。こうした技術は障害の有る人達の生活の質の向上にも貢献するのではないかと期待されている。事故によって14歳で失明しながら、IBMの優れた技術者として日本人女性初の「IBMフェロー」の称号を受け、2年前には「日本科学未来館」の館長に就任した浅川智恵子氏も、デジタルやAIを使って視覚障害者を支援する技術やツールの開発に取り組んでいる。そんな浅川氏に技術開発への思いや今後の夢等について語って頂いた。
——2009年に日本人女性初のIBMフェローに任命されました。会社ではどの様なキャリアを積んで来られたのですか。
浅川 入社当初は、点字のデジタル化プロジェクトやウェブページを音声で読み上げるソフトウェアの製品化に取り組んでいました。その後、会社に在籍したまま大学院に入り、04年に博士号を取得し、IBMフェローを目指そうと考える様になりました。その思いを上司に伝え、テクニカルリーダーとしてIBMフェローへのステップを踏んで行きました。
——視覚に障害が有る事で、苦労も多かったのではないでしょうか。
浅川 大変だったのは働きながら大学院に通った頃ですね。仕事と研究を両立して、国際学会や学会誌で研究内容を発表し、博士論文を書かなければなりません。この3年間を乗り越えた事でフェローを目指すという目標も出来ました。05年にシニアテクニカルスタッフメンバーに就任しましたが、そこから4年でIBMフェローになれたのは、かなり早かったと思います。入社から博士号を取得する迄の研究がベースとして大きかったですね。
——お一人で米国出張した事も有ると聞きました。
浅川 25歳位だった頃の古い話ですが、目の見えない女性が1人で約2週間、米国で過ごしたのですから凄いチャレンジです。社内の障害の有るテクニカル系社員の情報交換セミナーに参加する為に渡米したのですが、今と違いスマートフォンもオンライン予約も無い時代です。今なら、ネットを通じて信用出来るリムジンやタクシーを呼べますが、当時はそういったものは有りません。ですから、身を守る為に、出来るだけ友達や知人といったネットワークを頼りました。知人に空港やホテルに迎えに来て貰うのですが、飛行機が遅れて空港に迎えの人が居なかった時は慌てました。当時は携帯電話も普及していなかったので、直ぐに連絡は付かない。でも、目が見えないからといって自分の行動範囲を制限したくはなくて、周りの研究員がしている事は極力自分でやりたいという強い思いが有りました。
——日米で、研究する環境や仕事に対する文化について違いは有りますか?
浅川 日本は米国より職場に女性が少ない。米国は男女が同等ですし、多様性という面で日本は遅れています。多様な視点によるアイデアの乏しさが、イノベーションを起こしにくい環境に繋がっていると感じます。研究費予算の額も米国の方が豊富で、日本は、研究員の数も研究出来る場所も少ない気がします。米国の大学は自由度が高いですよね。企業との連携でも非常にフットワークが軽いです。
——先程の「多少の危険が有っても挑戦する」という出張の話とも通じる印象です。
浅川 日本は安全性を非常に重視します。安全、安心で住み易い国ですが、逆に100%の安全性を確保出来ないものを容易に受け入れない部分が有る。だから、中々新たな技術を体験出来ないというジレンマが有ります。例えば日本の企業が私を1人で海外出張させたら、「誰が責任を取るんだ」と言われるでしょう。でも責任は自分に有るのです。日本もそうした意識に変わって欲しいと思います。
社会の変革に繋がるアクセシビリティ
——日本科学未来館館長に就任して2年が経過しました。
浅川 未来館という場を実験場として活用し、新たな技術を発信し、議論して行きたい。未来館を中心に多くの人が繋がるネットワークを構築し、社会実装を促進出来たらと考えています。
——今後の取り組み方針として「Miraikanビジョン2030」を発表されました。
浅川 「ライフ」「ソサイエティ」「アース」「フロンティア」の4つの領域の情報を発信して行こうと考えています。ライフでは、人生100年時代を迎えて私達はどの様に生きて行くのか。ソサイエティでは、AIやロボット等の新たな技術と共に街や社会はどの様に変わるのか。アースは、この地球で暮らし続けて行く為に私達に何が出来るのか。最後のフロンティアは、宇宙等のフロンティアに関する研究から見える未来です。
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