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未来の会

第67回 医師が患者になって見えた事 多発性硬化症に重症筋無力症を併発する

第67回 医師が患者になって見えた事 多発性硬化症に重症筋無力症を併発する

キョーワメディカルケア株式会社
あかり訪問看護ステーション
みんなの保健室 医師•健康アドバイザー
小田 瞳/㊤

小田 瞳(おだ•ひとみ)1981宮崎県生まれ。2005年早稲田大学人間科学部卒。09年愛媛大学医学部卒業、同医学部附属病院、済生会今治病院での研修を経て、14年医療法人神甲会隈病院入職(18年退職)。21年から現職。

座右の銘は、「人生、生きているだけで丸儲け!」。甲状腺専門の外科医として順調にキャリアを積む中、突然の神経難病に見舞われた。多発性硬化症に重症筋無力症を合併しており、生活の自由は大幅に制限された。奈落の底から、医師として、母として、できることを見いだし、新たな夢を紡いでいる。

天職として甲状腺外科を専門に

小田は1981年、宮崎市内で生を受けた。父は自営業で、身内に医師はいない。好奇心旺盛で活発な少女だった。4歳の時、風邪の診察を受けた女性医師にあこがれ、「大きくなったら、お医者さんになる」と言いだし、率先して学習塾に通い始めた。地元の県立高校に進んだが、詰め込み主義の勉強に身が入らなかった。医学部を目指し福岡で2年間の浪人生活を送ったが、3年目の挑戦でも合格は果たせなかった。

医師の夢は封印し、早稲田大学の人間科学部に進んだ。遺伝子の研究に取り組み、国立成育医療センター(当時)に入り浸って動物実験を重ねるうち、臨床医学への思いが再燃した。飛び級制度で早大を3年で卒業、愛媛大学医学部3年次に編入した。

2009年に医学部を出ると外科を志望し、大学病院で初期研修を受けた。小田は中学時代にバセドウ病と診断され、服薬治療を続けていた。医師になって3年目、市中病院で研修中に甲状腺を切除する手術を受けた。回り道をしたが、甲状腺を専門に据え、患者の目線も生かしていこうと、意思を固めていた。

第一線の現場で研鑽を積みたいと、後期研修を終えると、甲状腺専門で伝統のある隈病院(神戸市)に入職した。特段に手先が器用というわけではなかったが、慎重さで補いながら手術の腕を磨いた。症例は研究にまとめ、「低リスクの甲状腺微小がんは手術よりも経過観察が有用である」とする最新のガイドラインの根拠になる論文も発表した。

外科学会、甲状腺外科の専門医に加え、2017年に日本甲状腺学会の専門医の認定も受けた。2月には、研修先で知り合った薬剤師の夫との間に息子が生まれていた。日本全国には、まだ甲状腺診療が充足していない地域もある。近い将来、隈病院で学んだことを生かして、夫の故郷でもある愛媛で、子育てをしながら、甲状腺診療を専門的に行おうと、家族で青写真を描いていた。

しかし、出産直後から体調不良に襲われていた。足の付け根から始まった痛みは次第に広がり、足を引きずるようになっていた。臼蓋形成不全と診断され、6月に神戸海星病院で、まず右側の骨切り術を受けた。変形している股関節を正す手術だ。外科医である小田は、手術さえ受ければ、症状は改善するだろうと楽観的に考えていた。

ところが、術後しばらくはベッドから起き上がれず、座ることもままならなかった。やっと離床できたのは1カ月後、松葉杖なしに歩けるようになったのは、半年近く経ってからだった。2019年5月に、骨盤に留置したボルトを抜く手術を受けた。日帰りで済む手術だが、帰宅後から尿が出なくなった。救急病院を受診しても原因は分からず、自己導尿せざるを得なかった。

その年の12月、神戸大学医学部附属病院で左側の股関節の手術を受けた。こちらは侵襲の少ない内視鏡下手術だった。しかし、やはり術後から起き上がれないどころか、頭も起こすこともできない。両足が麻痺して歩けず、車椅子を用いるしかなかった。さらには、言葉をうまく発音することもできなくなった。MRIやCTなどの画像検査を重ねても、何も異常所見は見つからない。精神的な不調ではないかと、精神科医の診察を受けたが、異常はなかった。診断がつかないままに、入院生活が3カ月以上に及んだ。

首から下が動かせず失意の底に

2019年のエイプリルフールの朝、首から下が全く動かせなくなっていた。何たるブラックジョークだろうか。しかし、検査で異常が見つからないと、病院からは退院を促されていた。「寝たきりのままで、どこで、どう生きていけば良いのだろう」。途方に暮れるばかりだった。

夫は愛媛で働いていた。間もなく2歳になろうという息子は、幸いにして、夫の両親が面倒をみてくれていた。だが、思い描いていた未来の夢はしぼみ、生きる意欲は失われ、病床でうつうつとした日々を送っていた。

そんな小田を励ましてくれたのは、同じ病棟の患者仲間たちだった。ハンバーガーや菓子を持ち寄り、小田を励まそうとパーティーを開いた。車椅子を押し、外の散歩にも連れ出してくれ、小田の笑顔が戻ってきた。一方、整形外科とリハビリテーション科の医師たちは、関西中の病院に小田の治療を打診した。しかし、診断もつかないとあっては、色よい返事は得られないままだった。

排尿や排便にも不自由をきたしていたが、泌尿器科の病気も否定されていた。骨や筋肉に異常がないのであれば、神経系の障害の可能性もあるのではないか。知人の助言を受けて、小田は英語の文献を探ってみた。すると、一般的な画像検査では異常が認められないタイプの神経難病があるという。小田の妹は脳神経学者で、脳生理学を研究している。妹に相談すると、国立精神•神経医療研究センター(東京都小平市)で、確定診断のための特殊な画像診断を行い、診断的治療を施していることも分かった。

それが多発性硬化症だった。手足の痺れや震え、視力低下などを繰り返し起こす神経難病だ。自己免疫が関係していると考えられており、血液内の病原性免疫グロブリンや炎症性物質を除去する血液浄化療法(血漿交換)が有効だという。

八方塞がりの状態に、光明が差したような気がした。根治は厳しくても、診断名が付かない状態に比べれば、はるかにましだ。かつて成育医療センターで指導を受けた研究者から、精神•神経医療研究センターの医師を紹介してもらえた。

血液浄化療法は関西でも受けることができたが、正確な診断を下してもらい、第一人者の診療を受けようと、小田は上京を決意した。娘の難病を知らされ、母はうろたえるばかりだったが、父と夫は冷静に受け止め、小田の決断を支持してくれた。

2019年3月、精査をしてもらう目的で、精神•神経医療研究センターを受診した。特殊なMRI検査と血液検査を重ねた結果、突きつけられたのが、多発性硬化症に重症筋無力症を併発しているという過酷な診断だった。

バセドウ病を含め、いずれも自己免疫が関わるとされる疾患である。整形外科での手術の侵襲をきっかけに、免疫系が暴走を起こしたようだった。確定診断がついたことは、むしろ朗報だと、小田は気持ちを切り替えた。「根治はできなくても、急な死を意識しなくてよくなった。前を向いて生きていくしかない。もう後ろは向けない」。(敬称略)


〈聞き手•構成〉ジャーナリスト: 塚嵜 朝子 

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