
性善説を脱した点検制度への挑戦
後期高齢者医療制度を支える審査の隙間を、或る1人の医師が突いていた。診察していない患者への高額薬剤に関する虚偽の処方箋を薬局に出し、薬を騙し取っては転売する——そんな手口で東京都後期高齢者医療広域連合は約13億8000万円の損害を受けた。
長年、医療機関との信頼関係の上に成り立って来た点検の仕組みが、継続的な詐取の前に殆ど機能しなかった格好だ。この事件を受け、同連合は8月、全国に在る後期高齢者医療広域連合として初めて、不正請求を検出する新システムを導入する。医療機関を信頼する事を前提に築かれてきたこの審査体制は、何故この不正を見抜けなかったのか。謂わば「第3の点検」とも言うべきこの新たな仕組みは、医療現場に何をもたらすのか。
診療報酬不正は何故見抜けなかったのか
警視庁は2025年9月、詐欺容疑で44歳の医師を逮捕した。捜査関係者によると、同医師は21年頃から、実際には診察していない患者の名前を使って抗がん剤が必要だとする虚偽の処方箋を繰り返し作成し、薬局から詐取した薬を医薬品卸売会社に売却していたとされる。発覚したのは、「身に覚えの無い診療内容が有る」との患者からの相談がきっかけだった。高額な抗がん剤は転売価値が高く、換金し易い事が狙われた背景に有ると見られる。この一件で都後期高齢者医療広域連合が被った損害額は約13億8000万円に上った。
診療報酬の審査は、社会保険診療報酬支払基金や国民健康保険団体連合会によるコンピューターチェックと、広域連合など保険者による内容確認の二段構えで行われている。支払基金では近年、AIを使ってレセプトを振り分ける仕組みも導入されているが、特に過去の審査結果と照らし、算定ミスや査定対象となり易い請求を判定するものである。請求そのものが最初から虚偽だという「意図的な不正」を見抜く様には設計されていない。
1次審査を経た後、保険者側が担ってきたのが、医科・調剤レセプトを突き合わせる「突合点検」と、同一患者の複数月分を照らし合わせる「縦覧点検」である。何れも算定ルールとの整合性を機械的に確認する仕組みで、病名に対して診療や調剤の内容が制度上適切かどうかに重点が置かれてきた。その一方で、医師は高い職業倫理を持つという前提に立ち、請求そのものが虚偽である可能性を疑う視点は、1次審査にも保険者による点検にも十分に組み込まれていなかった。裏を返せば、記載された病名と処方内容さえ形式上整合していれば、診察の実態そのものを確かめる術は無かったという事になる。
この構造は東京都に限った話ではない。厚生労働省によると、24年度に不正な請求が確認され、医療機関への返還が求められた総額は約48億5000万円に上る。同年度に個別指導を受けた医療機関等は2494件で前年度から70.4%増え、重大な違反が疑われて監査を受けたのは医科20件・歯科14件の計34件、指定取消等の処分を受けた保険医療機関は23件、医師等は18人で、何れも前年度から増加している。
この数字を数年遡ると、不正の根深さがより鮮明になる。22年度に指定取消等の処分を受けた保険医療機関は18件、医師は14人、23年度は医師は14人と横這いだったものの、医療機関は21件に膨らみ、24年度には医療機関23件、医師18人へと増加した。指導や監査が行われているにも拘らず、摘発件数と返還額が近年揃って上昇している構図は、従来の点検だけでは捉え切れない不正が依然として存在する事を示している。
不正請求は一般に、実際には行っていない診療を行った事にする「架空請求」、実施した診療の回数や内容を水増しする「付増請求」、実際に行った診療を、より点数の高い別の診療行為にすり替えて請求する「振替請求」等に分類される。
今回の東京都の事件は、診察の実態が無いまま処方箋だけを作成した点で架空請求の典型と言えるが、その先に薬を転売して現金化するという流通面の不正まで組み合わさっていた。短期間に同様の請求を繰り返すといった、複数のレセプトを横断的に見なければ浮かび上がらない不審なパターンは、従来の点検では捉え難かったのである。
全国初の「第3の点検」とは何か
新システムは、こうした点検の死角を埋める役割を担う。都後期高齢者医療広域連合は、これを「第3の点検」と位置付ける。膨大なレセプトデータの中から、短期間に多数の請求を繰り返す等、内容に疑義の有るケースを機械的に抽出し、点検員が不正の可能性が高いものへと絞り込む。最終的には患者本人へのアンケートによって、実際に受けた診療の内容と請求内容が一致しているかを確認する仕組みだ。患者が実際には受け取っていない薬剤が請求されているケースや、薬剤の不自然な処方・請求パターン等も、検出出来るという。
従来の点検が主として個々のレセプトに記載された「病名と診療内容の整合性」を確認するものだったのに対し、第3の点検は複数のレセプトを串刺しにして解析し、請求パターンそのものの異常性を洗い出す。最後は患者への直接確認によって実際に診療が行われていたという事実確認まで踏み込む点に特徴が有る。後期高齢者医療広域連合は47都道府県全てに置かれているが、こうした検出システムを導入した広域連合はこれ迄に無い。既存の点検体制がほぼ横並びだった中で、東京都の先行導入は、他の都道府県にとっても今後の不正対策を考える上で重要な先行事例となりそうだ。
新システムが投げ掛けているのは、「医師は高い職業倫理を持つ」という性善説に立ってきた従来の点検体制からの転換である。膨大な件数のレセプトを扱う以上、請求パターンを横断的に解析する仕組みを整える動きは、他の都道府県の広域連合や健康保険組合、国民健康保険団体連合会にも広がっていく可能性が有る。医療情報のデジタル化が進めば、その技術的なハードルは更に下がっていくだろう。
不正対策は医療現場をどう変えるのか
一方で、この転換には見過ごせない負の側面も有る。患者へのアンケートという手法は、適正な診療を受けている大多数の患者にとって、思い掛けず自分の受診歴を疑われている様な戸惑いを生み兼ねない。大多数の医療機関・医師が誠実に診療報酬を請求している中で、疑いの目をどこ迄広げるかという線引きは、今後の運用の中で問われるだろう。
過剰な照会が患者との信頼関係を損ない、受診控えに繋がれば本末転倒である。又、個人情報である受診履歴を扱う以上、点検員の守秘義務やデータの管理体制をどの様に担保するのかも、運用開始後に問われてくる筈だ。
コスト面の副作用も見逃せない。新システムの開発・運用や点検員の人件費は、最終的に保険料や公費によって賄われる。後期高齢者医療制度には現役世代からの支援金も充てられており、新たな対策の費用も世代を問わず社会全体で分かち合う形となる。捻出出来る不正の規模が限られれば、対策コストが回収額を上回る事になり兼ねず、費用対効果の検証も避けて通れない課題となる。
それでも、保険料や公費という共有の財源から支払われる診療報酬を詐取する行為が現に起き、しかもその被害額が1つの事件だけで10億円を超えた以上、これ迄の点検体制を維持し続ける事は難しい。医療現場にも、診療と請求の適正性を客観的に説明出来る様、診療内容や請求の根拠をこれ迄以上に丁寧に記録する事が求められる局面に入ったと言える。全国初の「第3の点検」が不正の抑止に繋がるか、その成否が問われている。



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