
大学病院・医学部に必要な研究力をどう維持するか
大学病院や医学部で働く教員の多くは、専門業務型裁量労働制の下にある。時間配分を自らの裁量に委ねられる筈の制度でありながら、現場では診療、教育、校務に追われ、肝心の研究に充てる時間が激減している。2024年4月に始まった医師の働き方改革と、ほぼ同時期に施行された裁量労働制の省令改正は、長時間労働の是正を進める一方で、大学病院に特有の歪みを浮き彫りにした。日本の医学研究力をどう守るかが、今厳しく問われている。
「裁量」という建前と臨床現場の現実
大学教員が自動的に裁量労働制になる訳ではない、という事実はあまり知られていない。専門業務型裁量労働制を適用出来るのは、主として研究に従事する教授・准教授・講師等に限られ、研究以外の業務が所定労働時間の概ね半分以上を占める場合には適用出来ないとされる。更に、深夜や休日の労働には割増賃金の支払いが必要で、みなし労働時間が法定労働時間を超えれば、超過分の時間外手当も支払わなければならない。「裁量労働制だから残業代は出ない」という理解は誤りである。
この点を見落とした運用は、しばしば法的紛争に発展する。島根大学では18年、裁量労働制で働く教員の深夜・休日の研究活動に割増賃金を支払っていなかった事が労働基準監督署に違法と認定され、合計約9000万円の未払い賃金が支払われた。授業や教授会、外来や手術といった拘束時間が多い医学系では、勤務時間の大半が事実上固定され、「裁量」が名ばかりになり易い。制度の建前と実態の乖離が、他の分野以上に大きいのが医学部・大学病院の特徴である。
裁量労働制を適用される教員からは、授業や会議の為に特定の時間帯の出勤を義務付けられるのなら、最早裁量とは言えない、という声も出る。研究という業務の性質上、いつ何を考え、いつ実験や論文執筆を行うかを本人に委ねるのが制度の趣旨である。しかし組織運営に不可欠な校務や臨床当番、学生指導が積み重なれば、自律的に使える筈の時間は急速に減っていく。みなし労働時間の設定が実態と合わなければ、健康を損なう程の長時間労働が見え難い形で常態化する危険もある。
2024年改革で重なった2つの時間管理
24年4月、裁量労働制の省令・告示が改正され、本人の同意取得や不同意者への不利益取り扱いの禁止、同意を撤回出来る仕組み等、働き手の保護を厚くする手続きが専門業務型にも新たに導入された。
同じ4月には医師の働き方改革も本格的に施行され、勤務医の時間外・休日労働に上限規制(原則は年960時間、特例水準でも年1860時間)が掛かった。大学病院の医師は研究者であると同時に診療の担い手でもある。収益に直結する診療時間は容易に減らせない為、上限規制の下で皺寄せが及ぶのは、研究、教育、そして自己研鑽の時間だった。
上限規制は、大学病院から地域の関連病院への医師派遣にも影を落とす。派遣の縮小を検討すると答えた医療機関が一定割合に上るとの調査もあり、地域医療と研究・教育の双方に波及する懸念が指摘されている。
何を労働時間と見做すかという線引きも、大きな争点となった。診療に従事しながら給与を支払われない「無給医」の存在が問題化し、19年の文部科学省の調査では、最終的に59の大学病院で計2819人もの医師が、診療を自己研鑽や研究の名目で無給扱いされていた事が判明した。各病院は遡及して給与を支払う等の対応を迫られた。
厚生労働省は、24年1月の段階で、大学病院等で教育・研究を本来業務に含む医師について、研鑽が労働時間に該当するかどうかの考え方を改めて明確化している。上限規制と裁量労働制という2つの枠組みが重なり合う中で、現場は労働時間管理の精緻化を迫られている。何処迄が指示に基づく業務で、何処からが自発的な研鑽なのか。大学病院では、診察、研究、教育、自己研鑽の線引が難しく、過小申告や、研究活動の萎縮を招く恐れも有る。
研究時間の空洞化と経営難という構造
研究時間の減少は、既にデータにも明確に表れている。全国医学部長病院長会議の調査によれば、教育・研究の主力を担うべき助教でさえ、約65%が週の研究時間5時間以下に留まり、全く研究をしていない者も1割を超えた。文科省の調査でも、保健分野の大学教員が職務に占める研究時間の割合は長期的に低下しており、とりわけ35歳から45歳という、臨床経験を積んでこれから研究に本腰を入れる世代が、働き方改革の影響を最も受けているとされる。
背景には大学病院の深刻な経営難が有る。物価や水道光熱費の高騰を受けて多くの国立大学病院が赤字に陥り、24年度はその総額が前年の4倍超に膨らんだ。収益を確保する為には診療を縮小する事は出来ず、結果として研究・教育に回す人員と時間が削られていく。この状態が続けば、新たな医療技術の開発力や、次世代の医師・研究者を育てる教育力が衰え、ひいては国全体の医療水準の低下を招き兼ねない。若手が研究の入り口で躓けば、基礎研究の成果を臨床へと繋ぐ橋渡しの担い手が減り、その影響は10年単位で静かに広がっていく。長時間労働の是正という本来正しい改革が、皮肉にも研究力の土台を侵食し兼ねない構図になっている。
診療変調から研究再投資へ
打開に向けた動きとして、文科省は24年3月に「大学病院改革ガイドライン」を策定し、各大学病院は運営、教育・研究、診療、財務・経営の4つの視点で改革プランを定めた。人的・物的資源を診療から教育・研究へとシフトさせ、研究支援スタッフやリサーチ・アドミニストレーター(URA)といった専門人材を配置。医師でなくてもよい業務を他職種へ移すタスクシフト・シェアに加え、研究のデジタル化や機器の共用を推し進める事が研究時間を取り戻す鍵とされ、目下試行錯誤が続いている。
財政面の手当ても本格化している。25年度の補正予算では、経営危機にある大学病院本院に対し、凡そ64病院に各5億円規模の緊急支援を行う方針が示された。全国医学部長病院長会議は、研究に力を入れるべき助教クラスに重点的に配分するよう求めると共に、26年度の診療報酬改定で大幅なプラス改定を要望している。研究費の面でも、科研費の上位種目で高い評価を得ながら採択に至らなかった研究者に助成を行い、挑戦意欲を後押しする仕組みが設けられている。
こうした医療分野に固有の支援に加え、政府全体としても大学の研究力強化に向けた施策を広げている。国際的に卓越した研究を行う大学への重点支援や、研究戦略を担う専門人材の人件費、研究環境の高度化を継続的に支える基金の創設等、ハードとソフトを一体で整える取り組みが進む。
大学病院の教育・研究基盤を充実させる機能強化事業も、経営の構造転換と歩調を合わせて選定・実施されており、診療に偏った資源配分を見直す流れが少しずつ形になりつつある。26年3月に閣議決定された第7期科学技術・イノベーション基本計画は、四半世紀に亘る研究力低下への危機感を背景に、研究時間の確保を正面から政策目標に据えた。
先導的な研究環境を整え、職務時間に占める研究時間割合50%以上を実現する研究大学を30年度迄に20大学以上とする数値目標を掲げ、研究設備の共用化や研究マネジメント人材の拡充も併せて進める方針である。研究時間の確保は、もはや個々の大学病院の努力に留まらず、国の研究システム全体を作り替える課題として位置付けられている。
突き詰めれば、研究力の維持は、制度の形を整えるだけでは実現しない。研究を「正当な労働」として明確に位置付け、それに見合う時間と人材、そして資金を確保する事が不可欠である。働き方改革によって生まれた時間的余白を、研究と教育の再投資へと振り分け、裁量労働制を長時間労働を覆い隠す装置としてではなく、本来の自律的で創造的な働き方を支える仕組みへと立て直せるかどうか。その一点に、日本の医学研究の将来が掛かっている。



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