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私の海外留学見聞録 ⑦ 〜若き日の貴重な体験 エール大学(米・ニューヘブン)〜

私の海外留学見聞録 ⑦ 〜若き日の貴重な体験 エール大学(米・ニューヘブン)〜

花岡 一雄(はなおか・かずお
東京大学 名誉教授
JR東京総合病院 名誉院長
東京八重洲クリニック 名誉院長

山村秀夫教授(東大麻酔科)から米国への留学を打診されたのは、4カ月前のことでした。1974年1月1日からの研修に備え、前年の12月26日に妻と1歳4カ月の長女を連れて初めての渡米となりました。当時の羽田空港国際線は現在のように美しく整備された施設ではないものの、出国手続き後も送別用のガラス設備があり、日本との別れを惜しむことが出来ました。現在のような直行便はなく、給油のためにアラスカ・アンカレッジを経由してJFK空港までのフライトでした。当時は、航空料金が給料の何倍もし、渡航時間もかかるので、現在のように気軽に帰国したりすることはかなわず、3年間の予定の留学はかなり決意のいるものでした。

留学先は米国エール大学医学部麻酔科(Professor and Chairman, Luke M. Kitahata)で、2年間のレジデント生活と、その後のポストドクトラルフェロー1年間の研究生活が待っていました。ニューヨ−ク・JFK空港から車で1時間半のコネチカット州の大学のある町ニューヘブン市に到着するまで1日掛かりでした。人口15万人程度の地方の小都市ですが、市内の至る所に大学の施設が散在しており、病院は町の西寄りにありました。利便性を考慮して、病院まで徒歩で5分程度の20階建てのアパートに居を構えました。レジデント生活は基本的には毎朝7時から夕方5時過ぎまでの手術患者の周術期管理ですが、これに加えて、毎月1回の土・日連続の当直、週1回の当直が含まれておりました。渡米時は冬季で、しかも現地は緯度が高いため、出勤は日の出前、帰りは日没後になり、終日手術室での生活は、1週間まったく太陽を拝むことなく、春まで仕事に明け暮れる毎日でした。これに週末当直が加わると実に2週間も太陽の存在を忘れる程でした。当時は、日本での研修が米国でのインターン研修として認められれば、レジデント研修に入れましたので、現在のような米国でのインターン研修をスキップすることが出来ました。麻酔管理を主体としたレジデント生活は、患者さんのみならず、外科系医師・看護師との会話も必要とされ、当時は現在のように実用英会話教室がない時代で、苦労しました。特に、手術室内での外科系医師との手術をしながらの会話には、我々麻酔科医に対する要求が含まれており、迅速な対応が必要ですが、マスク越しの言葉は明確でなく聞き取りにくいことも多々ありました。日本での2年半にわたる経験と勘でなんとか乗り切ることが出来ましたが、患者さんはとにかく大柄で、人工呼吸や挿管も日本では経験したことのない研修となりました。胸が厚いのでバッグによる人工呼吸や下顎の持ち上げには力を要し、挿管でも上顎の持ち上げに腕を使い、喉頭展開にも苦労したことが思い出されます。米国は多種民族の集まりのため、薬物への反応にも、個体差が大きいようにも感じました。また、麻薬よりもバルビツレートの管理の方が厳密であったように思われました。このことが、現在の麻薬問題に発展したのかもしれません。

渡米1年目が終わるころには、言葉や生活に慣れ、気持ちも楽になってきました。年間約600症例の麻酔管理は、日本での約3倍にあたります。なんとか2年間のレジデント生活を終了して、3年目のポスドク生活に入りました。Prof. Kitahataの研究室に配属され、ネコを対象とした脊髄疼痛制御機構の研究を始めました。

当時はモルヒネの作用に関する研究が盛んに行なわれていました。この細胞活動がモルヒネ静脈投与により抑制されて下行性抑制系の発見となり、また、脊髄横断実験でも脊髄細胞への直接作用が認められ、上位中枢および脊髄への両作用があることが解りました。特に、脊髄への直接作用の発見は、その後臨床に応用され、オピオイドの硬膜外腔や脊髄クモ膜下への投与が痛みに苦しむ多くの患者さんを救った報告が数多く見られました。留学生活を3カ月延長し、1977年3月26日に妻と子供3人と共に無事に羽田空港に帰国しました。

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