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順風満帆の中、悪性リンパ腫の宣告

順風満帆の中、悪性リンパ腫の宣告
利博(いの・としひろ)1951年群馬県生まれ。77年順天堂大学医学部卒業。同学部小児科学教室入局。2000年いのクリニック開院。熊谷市医師会附属准看護学校校長などを歴任。現在、群馬パース大学保健科学部客員教授・評議員、同市医師会看護専門学校校長。

医療法のクリニック(埼玉県熊谷市)理事長・院長
利博/㊤

 青天の霹靂——がんであると伝えられた患者は、一様に衝撃を受ける。日本人の2人に1人ががんになる。とりわけ医師にはお馴染みの事実だが、「なぜ、自分が……」と。悪性リンパ腫の診断を受けた井埜利博医師の場合もそうだった。

 予兆が無いわけではなかった。診断を受ける2年程前、左の頸部に直径2㎝ほどの小さなしこりを発見した。触れるとグリグリと形が分かったが、リンパ節だろうと深く気にとめなかった。

 仕事は充実していた。群馬県伊勢崎市に生まれ、建設会社を営む父に伴い、埼玉県熊谷市で育った。県立熊谷高校から順天堂大学医学部に進み、小児循環器学を専門に据えた。

 2000年、慣れ親しんだ熊谷で自宅の敷地内に開業した。当時、熊谷では小児科への参入が相次いでいた。過当競争を招いてはいけないと、内科も掲げた。無床診療所として、当初はささやかなスタートだった。地元の同級生たちが、「井埜が開業するなら」と、家族ぐるみで受診してくれた。しっかり者の妻は中学校の同級生で、事務長と共に事務部門をまとめ上げてくれた。

頸部のしこりが腫れ、痛みを持つ

 順調に患者数が伸び、08年には4階建ての新棟を建て、19床の病棟を開設した。高齢者には管理が必要な患者が少なくない。軽度の肺炎や胃腸炎など、総合病院へ紹介状を書くまでも無い患者は、自院で受け入れたいと思った。

 開院以来、常勤医師は自分1人だけで切り盛りしていたが、有床診療所にする際に1人増員した。有床診には医師の当直義務は無いが、何かあれば看護師から、隣接する自宅にいる井埜の元に連絡が入る。深夜に起こされることは少なからずあった。それなりにタフな仕事は60代前半の身には少し堪え、疲れが取れにくくなった。

 新棟3階には、住宅型有料老人ホーム「乃の花」も開設した。医療を核に、地域の求めに応じて施設を拡充しつつあった。新たな設備投資には、銀行から多額の融資も受けた。経営は極めて順調で、自分が元気で診療を続ければ、返済には何の支障も無いはずで、週に8コマの外来を続け、外来が無い時間には訪問診療にも出向いていた。

 群馬パース大学客員教授、熊谷市医師会の理事、同附属准看護学校校長などの要職にあった。小児の受動喫煙対策をライフワークに「日本小児禁煙研究会」を立ち上げた。熊谷ロータリークラブの役員として社会奉仕活動にも努めた。

 15年、頸部のしこりは直径5〜6㎝の大きさになり、妻も「腫れているわね」と心配した。さらに、痛みまで持つようになっていた。自らエコーを当ててみると、前より大きくなっているのは明らかだ。

 「もし悪性のものであれば、2年も経てば大分進行しているはずだ。放ってはおけない」

 腫れているのが、リンパ節であることは間違いない。がんが疑われる患者を見つけて専門医に紹介状を書くことは少なくない。悪性リンパ腫の疑いのある患者についても5人ほど、熊谷からアクセスの良い群馬県立がんセンターへ送った。中には、残念ながら命を落とした患者もいた。

 悪性リンパ腫には、β2-ミクログロブリン、さらにsIL2-R(可溶性インターロイキン2受容体)という感度が高いマーカーがある。それらを調べるのが、先決だ。看護師に採血してもらい、すぐに検査会社に送った。その2項目は明らかに高値で、異常は明白だった。

 「このまま遠からず死んでしまうかもしれない。死は避けられない事だが、がんが事実なら、早く教えてもらった方がいい」

 父は90歳過ぎまで生きた。母は92歳で存命しており、いわゆるがん家系ではないはずだ。健康診断は定期的に自ら実施していた。コレステロール値や尿酸値が高めで、血圧も年々上がっていた。生活習慣病が悪化することはあっても、がんは全く想定外だった。飲酒は晩酌程度、最後にたばこを吸ったのは、医師国家試験の直前で、以来、禁煙を続けている。

医師の言葉に救われたり傷付いたり

 悪性リンパ腫について、井埜は文献を読み漁った。親しい医師仲間に血液の専門医はいなかった。群馬県立がんセンターに、自ら紹介状を書いた。次女は産婦人科医で、週1回クリニックの小児科診療を手伝ってくれていた。その娘の名前を入れた紹介状を作成し、予約を入れた。午後の診療がない日に、1人で車を駆った。

 担当医は落ち着いた女性医師だった。エコーを数回してみて腫瘍が大きくなっていること、β2-ミクログロブリンもsIL2-Rも高値であることを告げた。ためらいはあったが、自分が医師であることも告げた。後から医師と分かるのも気まずいだろうし、専門は違っても、医師同士であれば、より深い説明が聞ける。

 一通りの診察をした担当医は、「先生のおっしゃる通り、悪性リンパ腫のようです」と告げた。診断名は予想通りに深刻だったが、優しい物言いに救われた。確定診断を付けるため、腫れているリンパ節の一部を採取して組織を確認する生検が必要だった。

 頭頸科の耳鼻咽喉科医の外来に回った。局所麻酔で鼻からファイバーを挿入すると、「これはすぐ切ってみないと駄目ですね」と告げられた。そのぶっきらぼうな物言いは、心に刺さった。生検には、局所麻酔と全身麻酔があるという。「痛くない方でお願いします」。局所麻酔の方が切開は小さいが、傷跡よりも苦痛を避けたかった。

 検査のため、人生で初めて入院することになった。悪性リンパ腫の病型には、ホジキンリンパ腫と、さらに非ホジキンリンパ腫(悪性度により3病型)がある。せめて悪性度が低いものであってくれと、運を天に任せるのみだ。“痛くない方”は、全身麻酔による生検だった。広がりを調べるため、PET-CTも行った。左だけでなく右側の頸部、腋窩、胸部、腹部、そして骨盤に転移が見つかった。ステージ4。その最悪の知らせは、「濾胞性リンパ腫」という、悪性度が低い病名によって緩和された。担当医は告げた。

 「濾胞性悪性リンパ腫を多く診ていていますが、元気で回復された人が大勢いますよ」

 自分の病気への言及ではなかったが、豊富な診療経験が心強く感じられた。悪性リンパ腫に著効を示す分子標的薬リツキシマブを中心にした化学療法も、下調べの通りだった。局部のリンパ節の痛み以外、さしたる症状も無かった。「お願いします」と頭を下げた。信頼の置ける医師に診療を任せられることは、幸いだった。診療所経営の先行きは不安だったが、“まな板の鯉”の心境だった。  (敬称略)


【聞き手・構成/ジャーナリスト・塚崎朝子】

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