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未来の会

第17回 私と医療 ゲスト 大圃 研 NTT東日本関東病院 消化管内科部長・内視鏡部部長

第17回 私と医療 ゲスト 大圃 研 NTT東日本関東病院 消化管内科部長・内視鏡部部長
GUEST DATA 大圃 研(おおはた・けん)①生年月日:1974年3月4日 ②出身地:茨城県 ③恩師:東京女子医大消化器内視鏡科講師 光永篤先生、山鹿中央病院副院長 木庭郁朗先生 ⑤好きな言葉:粛々と、愚直に ⑥幼少時代の夢:医師になること ⑦将来実現したい事:自分の弟子、孫弟子を1人でも多く育てたい。内視鏡治療を世界へ広めたい。
幼少期から大学時代まで

 1974年、東京生まれです。小学生の頃に祖父が営む病院を父が継ぐ事になり、茨城県の下館(現・筑西市)に引っ越しました。実家は祖父母と父を始め、親戚にも医師が多い家系で、子供の頃から医療が身近な存在でした。自宅は病院のすぐ隣に在りましたから、昼夜を問わずに直通電話が鳴ったり、深夜に入院している患者さんの状態が急変して看護師さんが父を呼びに来たりする事も日常茶飯事。僕自身、病院の中で育ったようなものでしたから、医師になろうと思うのも自然な事だったと思います。

 高校は栃木県立栃木高等学校に進学しました。人に迷惑を掛けなければ大抵の事は許して貰える自由な校風の学校で、夏の暑い日には水を張ったバケツに足を突っ込んで、上半身裸で授業を受ける生徒もいて (笑)。そういう男子校独特のふざけた雰囲気は有りましたが、それなりの進学校だったのでみんな勉強はしっかりやっていたと思います。

 高校卒業後は日本大学医学部に入りましたが、大学時代はお酒を飲んで遊んでばかりいて、ダメな学生でした。子供の頃から医者になると決めてはいたものの、それが余りにも当たり前の事で「志」というものが無かったのだと思います。

 転機となったのは2000年。消化器早期癌の内視鏡治療である「ESD(内視鏡的粘膜下層剥離術)」に出合ったのが切っ掛けでした。開発されたばかりの新しい治療法で、機器や技術も未だ確立されていませんでしたが、僕はこのESDに大きな可能性を感じて何としても習得したかった。凝り性で1つの事にのめり込みやすい性格も相俟って、この分野で1番になりたいと思ったのです。

医局に属さず、内視鏡のスペシャリストを目指す

 僕の医師としてのキャリアは特殊で、どの大学の医局にも所属していません。今はそういう先生も増えていますが、僕が大学を卒業した当時は、医局に入らないと言うのは異端者そのもの。医局制度や学閥が力を持っている時代でしたから、理不尽な扱いを受けた事も有ります。

 結局、後ろ盾が無い不安定な身分のまま10年程働きましたが、当時は技術を磨く事に夢中で大変だと感じた事は有りませんでした。むしろ、医局というしがらみが無い事で仕事内容に対する制約も少なく、自身の技術を磨く事に没頭出来たと思います。臨床の世界では、「患者を治療した数」が圧倒的な力になります。その数が大きくなった事で周りも無視出来なくなり、僕自身の知名度も上がって、他の病院からもオファーが来る様になりました。

 07年には、後進を育成する為にNTT東日本関東病院に移りました。1人の医師が救える患者さんの数は知れていますが、僕がESDの出来る医師を育てる事で、更に多くを救えると思ったのです。

 全国から様々なキャリアや大学出身の先生が学びに来てくれました。集まった先生方には、良い事だけでなく大変な部分についても正直に話すよう心掛けていました。「これだけ大変だけれど、同じキャリアの人と比べても圧倒的に凄いと言われるレベルまで責任持って育てます」と。それを納得した上で学びたいと言う人は、やっぱり強いですよね。

 又、「ここはずっと居る所ではない」という事も伝えています。育った医師を抱えていれば楽なのでしょうけど、組織としてはどうしても停滞してしまうからです。上が抜けると、下の人達は立場が上がって大変になりますが、立場が上がると人は育っていきます。いつまでも上が居座っていると、下の人の能力を引き出す事が出来ません。それに、学ぶ時間に限りが有ると思っていた方が、頑張って学びますよね。

国内から海外へ

 後進の育成に力を入れる様になり、海外から声が掛かる機会も増えました。中でも、中国で行った内視鏡手術のライブデモンストレーションは、現地でも大変な反響でした。それが切っ掛けで、中国や台湾、韓国等のアジア諸国だけでなくロシアやイギリス、ドイツ、スペイン、スウェーデン、イタリア等からも声が掛かる様になり、多い時には1年の内3カ月は海外に行くようになりました。1人では到底対応出来ませんので、僕の所で学んだ先生やその弟子達と一緒に、チームとして活動しています。

 どこの国でもライブ手術をして欲しいと頼まれるのですが、中国は特に規模が大きくて、何千人、多い時には何万人をも前にして手術をするんです。絶対に失敗は許されませんから緊張感は有りますが、やはりモチベーションは凄く上がります。国は違うけれど交流が出来ると言う事が嬉しく、楽しかったですね。

逆境にあっても最善を尽くす

 パンデミックが起こってからは、海外に行く事も難しくなりましたが、それならWEBに切り替えようと。日本で手術を最初から最後までノーカットで全部撮影し、通訳も付けて早々に動画の配信をスタートしました。毎週1回の配信を2年間続け、配信回数は100回を超えました。3年目からはもう少しスタイルを変えてやって行こうと考えている所です。

 20年7月には、動画の教科書を作りたいと思い、内視鏡のオンラインサロン「Ohata Endosalon」を立ち上げました。通常、オンラインサロンというのは月額会費制なのですが、稼ぐ事が目的では無いので無償で提供しています。僕の時代は、分からない事を直ぐに調べられるように、白衣のポケットに本を入れていて、ポケットの数が足りないから白衣を重ね着していた程ですが、今の若い先生達は、何でもネットで調べるんですよね(笑)。時代は変わって、スマートフォン等で手軽に検索出来るような、身近な教科書のニーズが増しているのだと実感します。

 僕は常々「環境は自分が作っていくべきもの」だと思っていて、どんな環境であっても粛々と自分のやるべき事を行い、置かれた環境で出来る事を精一杯やっていく事で、幾らでも良い状況を切り開いて行けると信じています。これ迄を振り返っても、「継続は力」を実感しています。例えば、人と違う事や前例の無い事を始める時、最初は「あいつ、またあんな変な事やってるよ」と笑われるかも知れない。それでも、地道な努力を続けて1年、2年、3年と継続していくと、同じ事をやってみたいと思った人が後から現れても、誰にも追い付けない位の凄いレベルになっている筈です。だからこそ、何事に対しても一生懸命やる事が大切なのです。僕の場合はたまたまそれが内視鏡だったと言うだけで、他の分野でも同じだと思います。どんな事でも一生懸命突き詰めて行けば、必ず次のステージが見えて来ます。ですから、僕自身もまだまだ終点は見えていないのです。

インタビューを終えて
右:エグゼクティブシェフ HAAN TIM氏

久し振りの大圃先生は、医療への献身的な考えは何も変わっていなかった。中国での大圃先生の知名度は驚く程に高く、中国人医師や患者からの尊敬を集めている。それもその筈、これ迄に年間何度も中国に渡り、内視鏡のオペを指導する。その交通費等も自費だと聞いた。とても真似の出来る事ではない。医療における日中友好に大きく貢献している。その理由は、子供の頃に日々見ていた父親の患者に向かう姿勢が原風景にあるのではないか。政治家の世襲は問題が多いが、医師の世襲はウェルカムだ。幼少の頃からの心構えが違うせいか、医師としての自覚が深いと感じる。休む事なく、世界でトップを走り、この分野の医療を牽引する。(OJ)

Morton's The Steakhouse 丸の内

アメリカ農務省格付の最上級品質と認める「プライム」グレードの赤身肉を、500度以上の高温で一気に焼き上げたお勧めの逸品は、深いコクと旨味が魅力の「ザ・プレミアム・モルツ」と好相性。

東京都千代田区丸の内3-2-3 丸の内二重橋ビル
「二重橋スクエア」2F
03-6270-3900 
月〜日 11:30〜14:00 (L.O.)
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http://mortons-jp.com
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