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未来の会

第26回 私と医療 ゲスト 幸田 正孝 一般財団法人医療経済研究・社会保険福祉協会 顧問 元厚生省事務次官

第26回 私と医療 ゲスト 幸田 正孝 一般財団法人医療経済研究・社会保険福祉協会 顧問 元厚生省事務次官
GUEST DATA 幸田 正孝(こうだ・まさたか)①生年月日:1932年1月5日 ②出身地:愛知県 ③あまり読書好きでないためとくに感動した本はあげられません ④恩師というより、現職時代お世話になり薫陶をうけた元北海道知事の町村金五先生、元厚生大臣の齋藤昇先生を尊敬しております ⑤好きな言葉:「先憂後楽」「鶏頭となるも牛後となることなかれ」 ⑥幼少時代の夢:軍国少年でした ⑦将来実現したい事:世界から尊敬される国であって欲しい
転勤・疎開を経験した幼少期

父は陸軍省の軍人で、転勤の多い家庭でした。僕は転勤先の名古屋で生まれ、小学2年の時に東京に戻り、世田谷区立の桜小学校に転校しました。小学4年の時には半年間、中国の黒竜江省に在った日本人学校に通いました。幼い頃に転校を繰り返していたので、将来は転勤の少ない職業に就きたいと考える様になりました。

1945年3月10日の東京大空襲で下町が燃え、父の生まれ故郷の新潟に疎開して1年程暮らしましたが、東京で流入制限を行うというので、慌てて東京に戻る事になりました。疎開する前に住んでいた高樹町(現在の港区南青山)は焼け野原になり、信濃町の親類の貸家に住まわせて貰い、そこから中学校、高校に通いました。中学は都立第一中学校、高校は新制に移行直後の日比谷高校でした。

母は教育熱心で、水道橋に古くから在る進学塾に通わされましたが、反抗して直ぐに辞めました。高校3年の夏、夜中に目が覚めると、隣の部屋で両親が「家には浪人させる余裕は無い。正孝は出来が悪いから教育大学に行かせて教員にしようか」と話をしているのを聞きました。教職に就くつもりが無かった僕は、そこから勉強を始めました。僕等の代が卒業した年、日比谷高校から260人位が東大に合格しました。この記録は全国の高校の最高記録で未だに破られていないそうです。

「鶏口」になる道を選び、厚生省に入省

駒場から本郷に移る時に法学部に進みました。法学部には私法、公法、政治という3つのコースが有り、私法は弁護士や裁判官になる為のコースで民事訴訟法や刑事訴訟法を扱い、政治は法律を殆ど学びません。僕は細かい訴訟法が苦手だったので公法を選びました。

大学4年の夏休み、国家試験に向けて友人と3人で長野の戸隠に籠って勉強しました。学生達の間では毎年決まった神官の家に下宿をして研究するという習わしが有りました。戸隠に行こうと発案した朋友が、岸田総理の叔父に当たる岸田俊輔さんです。その甲斐あって皆、国家試験に合格しました。優秀だった岸田さんは大蔵省に入省しました。

母は息子の将来を案じて、知り合いの伝手を頼って銀行や自治庁(現在の総務省)等に掛け合ってくれましたが、最終的に新潟の遠縁で環境庁長官や厚生大臣になった小沢辰男氏が面倒を見て下さり、厚生省に入る事を決めました。当時の日本は戦争を終えて中国や朝鮮半島、台湾等から引き上げた人々で溢れ返っていましたから、人口問題に取り組もうと考えたのが理由の1つ。もう1つには、大蔵省の様な逸材が集まる中でトップになるのは難しい。「鶏口となるも牛後となるなかれ」という諺に習い、「鶏口」になる道を選択したのです。

日本と海外の医療・健康保険制度を徹底的に学ぶ

最初に配属されたのは保健局の健康保険課で、丁度国民皆保険制度を始めようという年でした。57年に4カ年計画が作られ、61年に皆保険が実現しました。

その後、官房総務課の審査係に移りました。ここは国会に提出する法案や政令、省令、告示の審査を行う所で、同時に若手を教育する仕組みになっています。そこに2年程居た後、医療保障審議室という臨時機関で日本の医療制度、海外の医療制度、健康保険制度、医療保障制度を洗い出し、約8カ月間で論文に纏めました。日本医師会との関係で公開される事はありませんでしたが、医療制度と健康保険制度の一切を学ぶ良い機会でした。これは、その後の僕の仕事の基盤になりました。どこの企業も同じですが、職に就いて2〜5年ぐらいの或る程度物事が分かって来た時が肝心だというのが僕の持論です。

それから年金局の年金課長になり、30歳の時に北海道庁に赴任し、1年半程で農政課長になりました。稲作が盛んな上川支庁を視察した際、「冷害になるぞ」と言ったのが的中し、2年続けて大冷害に。道中を巡り、国会に陳情に行って特別対策法の策定の為に奔走しました。地元紙には「素人の農政課長、冷害をいち早く見極める」と取り上げられました。

北海道から戻ると公害課に回されました。その頃は四日市や岡山の水島公害が問題になっていました。課長を務めていた橋本道夫氏は公害一筋で行政官の鏡と言える人でした。日本の公害対策が実を結んだのは彼のお陰です。

高度成長期に年金制度の大改正を敢行

医務局指導課長を経て年金局の年金課長となり、標準的な年金額を5万円に引き上げ、物価の上昇に応じて年金額を改定する物価スライド制を導入した「昭和48年改正」を行いました。後輩からは「盆と暮れの大盤振る舞い課長」と未だに呼ばれます。コロナ前の中国の様に年7%の高度成長が続き、少子化も無い時代でした。この経済情勢が暫く続くと思っていたのは、今から思えば若気の至りです。その後、石油危機による狂乱物価が起きて一定の役割を果たしましたが、後世責められても仕方が無いと思っています。

最後は事務次官として2年間務めました。当時は各省が自律した集団でしたので、人事も行いました。今は人事院会議が任免権を握っている為か、役人に元気が有りませんね。最近の優秀な学生は投資コンサルタントになるのだとか。役所は人気が無くなりました。

国民皆保険制度と感染症対策の行方に期待

皆保険から早くも60年以上が経ちました。元々皆保険は貧困者を救済するシステムではなく、全ての国民を守る仕組みとして生まれたものです。しかし昨今は少子高齢化による財政の問題に加え、先進医療を推進する上で皆保険が妨げとなり、富裕層は健康保険から外すべきという意見が支持される様になりました。戦後の混乱から高度成長期を経て、社会情勢がここ迄劇的に変化を遂げるとは、誰しも想像しなかった事でしょう。既にこの世を去った多くの先輩や同期を背に、歴史の審判を受ける思いで、皆保険の行方を見守りたいと思います。

今回の新型コロナウイルス感染症に関する諸問題では、厚労省がもう一歩優れた働きが出来ていれば、日本はもっと評価されたのではないでしょうか。戦後の厚生省は、赤痢やコレラ等の伝染病予防法を制定し、それなりに活躍しました。そうした実績を踏まえても、日本が世界から尊敬され、誇れる国であって欲しいと願います。

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