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未来の会

第22回 私と医療 ゲスト 澤 芳樹 大阪警察病院 院長 大阪大学大学院医学系研究科 特任教授

第22回 私と医療 ゲスト 澤 芳樹 大阪警察病院 院長 大阪大学大学院医学系研究科 特任教授
GUEST DATA:澤 芳樹(さわ・よしき)
①生年月日:1955年7月3日 ②出身地:大阪府 ③感動した本:『坂の上の雲』司馬遼󠄁太郎、『GRIT(グリット) やり抜く力』アンジェラ・ダックワース、『司馬遼太郎 リーダーの条件』磯田道史・他、『経営のこころ』稲盛和夫 ④恩師:川島 康生(大阪大学医学部第一外科教授・当時)⑤好きな言葉:先手必勝、でも迷ったら難しい方の道を選べ。夢に向かって Riskと困難 夢中の努力 その先にInnovationが見える  Steve Jobs(1955〜2011) ⑥幼少時代の夢:小学生の頃は水族館の館長や生物学者。中高生の頃は機械工学者だったが高校2年生の時に医師が目標に ⑦将来実現をしたい事:自ら開発した再生医療で世界中の心臓疾患患者を治す事
バスケを通してリーダーとしての資質を磨く

母は紀州藩の侍の子孫で、澤家の跡取り娘として生まれました。父は陸軍中野学校の出身で、戦後に田舎に帰って澤家の養子に入り母と結婚、大阪の堺筋本町で会社を創りました。生後直ぐに堺筋の開発で立ち退く事になり、和歌山で一時暮らしていました。その後大阪に戻り、小中高は堺市に在る三国丘に通いました。子供の頃は体が弱く、小学2年の時には1年の半分も登校せず、先生にもなかなか顔を覚えて貰えませんでした。勉学も突出する程では無く、家の中で動物図鑑ばかり眺めている様な子でした。

消極的な私でしたが、中学で友人に誘われバスケットボール部に入部した事が転機になりました。実業団から来たコーチが厳しく、1年363日が練習でした。40人居た新入部員は次々に辞めて行き、1年後には5人になりました。体を鍛えたお陰で私は丈夫になり、2年生になって3年生が引退すると、キャプテンに抜擢されました。そこでリーダーとしての条件や人の動かし方を学びました。近畿大会で優勝し、バスケで有名な私立高校からスカウトが来ました。背番号4番で、成績はクラスでトップ。あの頃はモテましたね。1970年前後のバレンタインデーの風習がまだ無かった時代に、女の子から初めてチョコレートを貰いました。

高校生時代の目標は、医者になって27歳以上生きる事

澤家は侍と百姓を半々位でやっていた様な家柄でしたが、祖父はこんな所で朽ち果てるつもりは無いと言って、府立大阪医学校に入りました。ところが医者になって間も無く、27歳の若さで亡くなります。母は生後3カ月でした。

親類には医者が多く、高校2年の時、大阪大学(阪大)医学部に入学した母の親戚に会い、彼の影響を受けて医学部を目指すようになりました。その人が又27歳の時、交通事故で亡くなるのです。たまたま同じ27歳で身近な人が2人も亡くなり、恐怖を感じました。その頃の私の目標は人助けという高尚なものでは無く、27歳以上生きる事でした。

「やる時はやる」——究極の心臓外科の道を突き進む

医学部進学に何年掛かるかと思っていたら、現役で阪大に合格。入学後は一切勉強をしませんでした。阪大の医学部にはバスケ部が無かったので、今度はテニスとスキーにのめり込む日々。5年生の冬、実習を休んで知り合いが経営しているスキー場のペンションに滞在し、ペンション経営をしながらスキーを教える人生も悪くないと考えていました。

ところが雪が溶けて帰る時期に、夢から現実に引き戻されました。それからは学業に専念し、ゼロから医師国家試験の勉強を始めました。

どうにか医師免許を取得したものの、時既に遅く、内科は難しかったので、医療は体で覚えるものだと言って第一外科に入局しました。『白い巨塔』の浪速大学の舞台になったと言われている、あの第一外科です。その時の教授が当時、日本の心臓外科で最も厳しかった天下の川島康生先生です。学問も医療のスタンスも一切の妥協が許されず、軍隊の様な医局でした。さすがにきついと感じましたが、私も徹底してやる性格でしたから、研修医の中で誰よりも医局で寝泊りをして、体を張って患者さんを看ていたので、先輩達から認められました。

研修期間後に転勤した神戸の病院は、9〜17時勤めで天国の様な所でした。初めての給料を貰い、街は上品で遊ぶ所も沢山在り、このまま人生が終わっても良いと思ったものです。この後に勤めた母子保健総合医療センターで再びスイッチが入り、今迄40年間走り続けて来ました。

留学先のドイツで感化され、新たな医局文化を築く

心臓移植の立役者である松田暉先生は、母子保健総合医療センター時代の私のメンターでもあり、阪大の前任の教授でもありました。この松田先生に、もっと研究をやりなさいと助言を頂いて携わった研究がヒットし、阪大に戻ってアメリカの学会で発表しました。

その後、川島先生の許しを得て、フンボルト財団の奨学金でドイツに3年ほど留学しました。ドイツは日本の文化とは全く違い、個人が重視され、教授も学生も皆友達です。そこで組織の在り方を勉強しましたね。教授に就任した時、いち早くそれを取り入れました。ピラミッド型の組織は上からの指示を待つばかりで成熟しません。組織は円柱形で在るべきで、研修医であれ、学院生であれ、助教授であれ、皆が自分の力を最大限に発揮出来るように、私は精一杯応援すると話したものです。

私がいつも言っているのは、10年先の自分を想像しなさいという事です。「10年上の先輩で一番輝いている人を見つけて、その人に追い付き追い越すつもりで計画を立てなさい。今年がその10分の1の年で、今日がその10分の1の日だとしたら、今日はすごく大事に思えて来るだろう」と。そうすると皆やる気が出て、年間300件程だった心臓手術が増え、私の教授就任後は皆でやる事によって1000件になりました。私の教授時代の後輩が今や教授です。後輩が育ってくれるのは嬉しいですね。これからは特に女性に頑張って貰いたいと思っています。心臓外科には心技体が要るので、体だけでは無く、マインドも大切です。

iPS細胞は海を渡り、10年後の商品化を目指す

大阪では、心臓外科と言えば阪大というブランドが確立しています。我々もここを最後の砦と言っていますし、患者さんの事は誰1人として見捨てません。「絶対に死なせない」という想いでやっています。

世界中の人を治せる様にする為には、人工多能性幹細胞(iPS細胞)が必要です。iPS細胞由来心筋シートの研究開発は次のステップに入り、今後は海外に拠点を移します。これを商品化するには、先ずはアメリカで実証される事が欠かせないプロセスになります。アメリカで認められたら、次はヨーロッパ、それから日本です。それ迄には、最低でも10年は掛かるでしょう。それがこの先10年の私自身の目標です。


インタビューを終えて

大阪大学「愛」が伝わる。今、大阪警察病院院長として益々、エンジン全開で進む。日々、心臓に難病を抱える患者を救う為に最善の準備と努力を惜しまない。正にブラックジャックだ。機械工学に進む予定が突然の変更で外科医に。この変更でどれだけの人命が救われた事か。2025年の日本国際博覧会の重責を担う。これも大阪「愛」だ。(OJ)

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