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未来の会

第25回 私と医療 ゲスト 長澤 泰 東京大学 名誉教授、工学院大学 名誉教授 一般財団法人ハピネスライフ財団 理事長

第25回 私と医療 ゲスト 長澤 泰 東京大学 名誉教授、工学院大学 名誉教授 一般財団法人ハピネスライフ財団 理事長
GUEST DATA長澤 泰(ながさわ・やすし)①生年月日:1944年11月10日 ②出身地:福島県 ③感動した本:アレキシス・カレル『人間  この未知なるもの』 ④恩師:(故)吉武泰水(東京大学工学部建築学科  教授) ⑤好きな言葉:忠恕(チュウジョ:正しい心と思いやり)家内の祖父・福本貞喜から結婚式に当たって送られた墨書色紙。 ⑥幼少時代の夢:建築家 ⑦将来実現したい事:身体修理工場の「病院」だけでなく、精神を含めて健康をもたらす「健院」を実現する事。
中学の頃から建築家を志し、自宅改造を計画

両親は共に福島高等師範を出て、東京の公立小学校で教師をしていました。私は戦争末期の1944年11月に福島で生まれ、零歳で東京大空襲を体験。その後、東京で育ちました。名前の「泰」は、平和への願いからです。

小学校は板橋区立志村第一小学校です。教頭の息子という事で、クラス担任は何かと「泰君を手本にしなさい」と級友に言うので悪戯も出来ず、今考えると窮屈でしたね。中学は東京学芸大学附属竹早中学校です。親は教員になって欲しかった様ですが、この頃から私の夢は建築家で、実家の間取り改造図を描いたり、工作用紙で開閉可能な引戸を作ったりしていました。

両親からはそのまま東京学芸大学まで上がれば良いと勧められましたが、受験して都立小石川高校(当時)に行きました。中学では数学部でしたが、高校では運動部がいいと思い、バレー部に入りました。学業成績は良かったので受験勉強を殆どせずに、東大を受験しましたが、現実は甘くはなく見事に不合格!一浪して東京大学理科1類に入学、建築学科に進みました。

沖縄で初めての病院建築を経験

東大では吉武泰水研究室に入り、建築計画学を学びました。卒論テーマは、当時、解体途中の旧帝国ホテルの空間構成論です。卒業設計は、環状七号線の再開発計画で卒業設計賞(辰野賞)と日本建築家協会(JIA)の卒業設計競技で金賞を戴き、デザイン系の受賞は東大からは初めてという事で話題になりました。卒業後は、設計実務をしっかり身に付けたかったので、芦原義信建築設計研究所に入りました。当時は、実務を学んだら独立するつもりで、今で言えば安藤忠雄先生の様な世界的な建築家に、いずれなりたいと思っていました。

入所2年目に新那覇病院の設計を担当。病院の設計はこの時が初めてでした。現場監理のため沖縄へ。職人や琉球政府の役人さんから「先生」と呼ばれるので、面目を保つ為に、建築主任、構造・設備の専門家に教えを乞う毎日でした。当時の沖縄はアメリカの占領下でしたが、日本国の無償借款物件なのでJISの基準に合わせる必要が有りました。コンクリート用砂材の塩分除去から、リベットの打設方式・鉄骨強度判定に至る迄、工事現場のあらゆる事を学ぶ事が出来ました。

大阪万博開催の年に東京に戻ると、副所長の守屋秀夫氏(後に千葉大教授)から、恩師(吉武先生)の次女との結婚を勧められました。そのまま順調に話が纏まると、先生が自邸で一緒に住まないかと言うのです。先生の父は国会議事堂の設計者、吉武東里。義母の父、福本貞喜は山下汽船の専務を務め、かなりの資産家でした。福本邸は親戚筋の著名な建築家、大熊喜英の設計による和洋折衷様式の建物で、今も一部が江戸東京博物館に残っています。その福本邸と吉武邸の建つ地所には両家の他、親戚筋の家族が住んでおり、そこに我々夫婦が加わり、大家族の日常生活が始まりました。先生は大学でも自宅でも全く同じ、裏表の無い人でした。

活躍の場は世界へ

沖縄の仕事を通じで病院建築に興味を持ち、本格的に学びたいと義父に相談すると、実務経験があるのだから研究所で学んだ方が良いという助言を得ました。結局、厚生省病院管理研究所(現・国立保健医療科学院)の建築設備部に入りました。在籍中に、ブリティッシュカウンシルの奨学生として2年間イギリスに留学し、北ロンドン工科大学の医療施設研究部門で大学院コースを受講しました。病棟建築に関する論文をまとめたいと思っていたので、ロンドンで文献を集めていた際に、ナイチンゲールについて深く知る事になりました。

帰国から程無くしてヨルダンに飛び、丹下健三先生が国際コンペで獲得した大学医学部・病院の設計に関与。その後、WHOからの依頼でフィリピン、マレーシア、韓国、中国など発展途上国で保健医療施設の短期専門家を務めました。国際病院連盟(IHF)、国際医療福祉設備連盟(IFHE)、国際建築家連合(UIA)等の国際学会に参加、様々な講演や世界中の病院を視察。国内でも関連の学・協会の会長・役員を務めました。

患者に癒やしと安らぎを与える「健院」を提唱

89年東大建築学科に助教授として招聘され、94年に教授昇格。建築計画研究を本格的に継続・発展出来ました。その間に東大病院の新築にアドバイザーとして参画。2007年、東大を退官し、工学院大学に移籍。定年で辞めるつもりが、わが国初の建築学部を設立、初代学部長への就任となり、副学長も兼ねて4年間延長。続いて共生工学研究センター長となり、本年3月に任期満了となりました。35年に近い大学教員生活でした。

5年ほど前から、ナイチンゲール著『Notes on Hospitals』に倣って『Notes on Hospital Building』の作成を工学院大学の山下哲郎教授を中心に産学のチーム編成で行いました。医療・福祉施設を計画・設計する際に管理者側、医師側、建築側で検討すべき評価項目を挙げており、患者さんの安全・快適についての項目も有ります。英文版を含めて全てWebで無料公開していますので、是非参考にして頂きたいと思います。

1970年代にデンマークの病院を見た時は、日本の病院建築とのレベル差に愕然としました。高層病棟とピロティ上の診療棟、物品は設備棟からロボット自動搬送。地下の駐車場は核シェルターになるのだとか。只、今から思えば少しやり過ぎですね。現代はIoTの技術が進み、電話1本で薬剤が届く時代ですから。私は、病院には機能性と快適な空間の両立が重要だと考えます。そして、病院は最後の砦として救急・集中治療に特化し、回復したら「健院」に移るという流れを実現したいと思い、ハピネスライフ財団を立ち上げました。

恩師と暮らした自邸を共同住宅へ改修

福本・吉武邸の地所で20年暮らした後、1991年に旧吉武邸を二世帯住宅「ヨシタケハウス」として改築しました。私達夫婦が3階、吉武夫妻が2階に住み、1階は来客時用のパーラーとし、共同生活を30年余り送った思い出深い場所です。吉武先生が「貧乏になっても、壊して売るような事はするなよ」と言い遺したので、3年程前に躯体保存で原型を留め、4世帯の共同住宅に改修しました。

今、私達夫婦は半世紀住んだ便利な都心を離れ、富士山麓の自然の中で「厳しい」生活を送っています。吉武先生と家内に出会わなければ、この人生はあり得ませんでした。尊敬すべき恩師であり岳父、そして家族の健康と幸せを常に中心に考えている家内に心から感謝しています。

インタビューを終えて

初めてお会いしたのは2001年。「癒しと安らぎの環境」フォーラムの最初の理事会だった。日野原重明先生や岩﨑榮先生が、この活動に病院建築のプロの視線が必要だと理事に推薦された。第1回目の募集に全国から予想を超える265施設の応募が有り、理事の面々は選考に苦労したが、そんな時の長澤先生の一言一言が選考の助けになった。又、建築とは第二の衣服であり、環境制御装置でもあると話されていたのが印象に残っている。そして、病院とは病の家であり、「病」院である限り病気は治らない。健康な家、即ち「健院」と言う概念が必要だと話されていたが、今、正にその健院が世の中から求められる時代になった。著名な設計事務所から大学の研究室に戻る話に賛成する声は少なかったと聞くが、これも先見の明なのか、見事、建築学の教授に上り詰めた。このフォーラムの理事として、末永く指南役をお願いしたい。(OJ)


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