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未来の会

第69回 医師が患者になって見えた事 38歳で悪性度の高い子宮頸がんに罹患

第69回 医師が患者になって見えた事 38歳で悪性度の高い子宮頸がんに罹患

医療法人社団ラナンキュラス会
麗ビューティー皮フ科クリニック(滋賀県草津市)
院長
居原田 麗/㊤

居原田 麗(いはらだ・れい)1981年滋賀県生まれ。2006年滋賀医科大学医学部卒業。医仁会武田総合病院で研修後、恵聖会クリニック勤務を経て、11年麗ビューティー皮フ科クリニック開院。

1分1秒を惜しみ、人生を満喫していた。仕事でも私生活でも次々と目標や予定を設定してクリアしており、順風満帆の人生だった。しかし、38歳で遭遇した子宮頸がんは、想定外の番狂わせとなった。

人の人生に関わりたいと美容外科医に

居原田は1981年、滋賀県草津市に生まれた。父は会社勤めで、裕福ではなかったが、姉と弟に挟まれた3人きょうだいで両親の愛を受けて育った。「麗」という名前の通り、美しい物が好きで、料理や裁縫なども得意だった。成績も良く、進学校である京都教育大学附属高校に進んだ。

共働きの母はパート勤めをしていたが、自分は“手に職”を付け、少し広い世界で生きたいと思った。親族に医師はいないが、医学の道に進もうと決めた。産婦人科医になって、幸せな出産の場に日々立ち会えれば、自分もハッピー——漠然と憧れていた。

クラスメートが、「一緒に滋賀医大に推薦で入ろう」と誘ってくれた。推薦と言っても大学入試センター試験に小論文や集団討論が課され、ハードルは高いが、切磋琢磨した甲斐あって、2人とも合格を勝ち得た。

医学部5年次は病院実習だ。志望していた産婦人科で、想像していた甘いイメージが打ち砕かれた。子宮や卵巣を摘出し、出産を諦めざるを得なくなった女性たちに、自分はどんな言葉を掛けてあげられるだろうか。産婦人科を早々に断念し、手術ができ、女性である強みも発揮できる診療科として、美容外科を志すことにした。

実は小学生のころ、顔面に3つのほくろがあり男子生徒から、「鼻くそ」とからかわれた。中学3年生の時、思い切って美容外科の門を叩いた。レーザーでほくろを除去する治療は、自分のお年玉で賄えた。長年のコンプレックスが解消されて清々した。「美容外科は人の命には関わらないかもしれないが、人生に大きく関わる。人の人生に関わる仕事がしたい」。将来の目標が開けた。

2006年に医学部を卒業後、京都市内の総合病院で2年間の初期臨床研修を終えると、美容整形外科のクリニックで修行した。5年かけて形成外科の専門医を取ってから、美容外科医になる道もあるが、少し遠回りになる。居原田は、大学時代に知り合った夫と人生設計を思い描いていた。3人は子どもを育てたかった。1人目を20代で出産したいと、専門医は目指さないことにした。

09年、28歳で長男を出産した。同志として居原田の夢を後押ししてくれる夫を事務長に、郷里の草津市に麗ビューティー皮フ科クリニックを開院した。翌12年には次男が生まれた。自由診療が主体のクリニックは、腕の良さから評判を呼び、すぐ手狭になった。15年に施設を拡充して移転し、医師も増員した。

公私ともに多忙を極めていたが、毎日が充実していた。その年に三男が、18年には待望の長女が誕生した。毎日夜7時の閉院まで、患者の予約はぎっしり詰まっていた。帰宅は9時を回ることもある。幸い、夫の母が家事を手伝ってくれるので、食事の支度などは任せ、子どもたちと過ごす時間はできるだけしっかり取るように努めた。家族、クリニック……守るべき物はたくさんあり、居原田は立ち止まることを良しとしなかった。

生来健康だったが、19年9月ごろから、時々不正性器出血があった。居原田は、黄信号を見逃さなかった。下の子2人を取り上げてくれたかかりつけ医は、産科が主体であるため、初めての産婦人科医院を受診した。加齢症状のようなびらんがあり、がんではないので心配には及ばないと告げられた。しかし年が明けても、不正出血は続いていた。発熱や腹痛など、ちょっとした不調のたびに心が乱れた。

2月になって、念のため、かかりつけの産科で細胞診をしてもらった。主治医も異変を察知し、検査結果を待たず、2人の母校である滋賀医大の附属病院に紹介状を書いてくれた。早速、夫とともに滋賀医大を訪ね、産婦人科で生検を受けた。数日して、担当医から「がん」を告げられた。

予想していたこととは言え、衝撃を受けた。毎年の人間ドックは必ず受けていた。母方の祖父は胃がん、母は白血病で亡くなっていた。自分は、まだ小さい子どもたちの母として、経営者として、健康であり続けなければならなかった。自院の健康診断で腫瘍マーカーを定期的に測っているが、11月には異常はなかった。

居原田は、「がんは初期で、手術で取り切れるだろう」と高をくくっていた。近く、スタッフの結婚式に出席するため、ハワイに行くつもりだった。MRIや造影CT検査は混み合っていて、帰国後でないと予約が取れなかった。周囲は居原田の体調を案じたが、予定通りハワイに旅立った。

がんであると公表し前向きに闘う

帰国して滋賀医大を再度受診すると、深刻な結果を突き付けられた。居原田の子宮頸がんは、大多数を占める扁平上皮がんではなく、ごく稀な小細胞がんだった。調べてみると、小細胞がんは早期に転移や再発を生じやすく、5年生存率も50%以下と予後は不良……。

その日は、人生で最も落ち込んだ日だった。11月には異常がなかったのに、がんが急速に大きくなっているようだ。夫と共に、ただただ泣いた。まさかの展開を、重苦しい気持ちで父やスタッフに伝えた。

子宮だけでなく、卵巣や卵管まですべて摘出しなくてはならなかった。居原田の脳裏に、医学部時代の産婦人科病棟の光景がよみがえった。自身が4人の子を出産していたことは救いだった。子宮や卵巣を失うことを悔やむ気持ちはなかった。

標準治療は外せないが、居原田は、それ以外にもできることは何でもしようと思った。まずはビタミンCの点滴で、自院でも導入していた。白血病で闘病中の母を肺炎で失ったことへの後悔からだ。抗がんなどを目的とした免疫力向上には、美容目的に比べて高濃度のビタミンC点滴が有効とされる。また、食事療法も採り入れた。かつて居原田のクリニックで働いていた増田陽子が、栄養療法のメッカである米国のクリニックへの留学から帰国した直後だった。増田の指導で、がんの栄養源となる炭水化物を大幅に制限し、体のエネルギー源を糖質からケトン体(脂質)へシフトする食事を試みた。自らの努力でできることはたくさんあり、どれも闘病の力とした。そして、闘病についてブログに正直に書き、患者たちにも伝えた。居原田の診療や手術は、かなり先まで予約が埋まっていた。きちんと理由を説明せずに長期にわたって休むことになれば、患者の不信や不安を招きかねない。患者の手術には人生が懸かっていることを、日ごろ痛感していた。そして20年3月11日、居原田は、自分も人生を懸け、患者として手術に臨んだ。 (敬称略)

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