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未来の会

人生に3度の命を脅かす事態

人生に3度の命を脅かす事態

葛西龍樹(かっさい・りゅうき)1957年新潟県生まれ。北海道大学医学部卒業。カナダ家庭医学会認定家庭医療学専門医課程修了。1996年北海道家庭医療学センター所長。2006年から現職。英国家庭医学会最高名誉正会員・専門医(FRCGP)。2019年WONCA(世界家庭医機構)アジア太平洋地域学術総会副大会長。


福島県立医科大学医学部
地域・家庭医療学講座主任教授
葛西龍樹/㊤

 新たな専門医制度では、総合診療と称されている家庭医療学。その日本における先駆けとして、実践と人材育成に力を注いできた、福島医科大学教授の葛西龍樹は、人生において3度、命を脅かす一撃に見舞われた。 北海道大学医学部を1984年に卒業し、小児科医局に所属してわずか8カ月、大学病院を出て最初の勤務先は日鋼記念病院(室蘭市)。1980年に日本製鋼所の企業立病院から医療法人として独立した病院で、地域の中核医療機関だ。

頭をバットで殴られたような衝撃

 研修2年目の7月のある日、就寝前に自宅でくつろいでいる最中、突然これまで経験したことのない強烈な頭痛が襲った。いきなりバットで殴られたような衝撃。脳卒中、それもかなり深い所で出血が起こったのではないかと直感した。

 咄嗟に浮かんだのは、患者のことだった。その時は小児科病棟とNICU(新生児集中治療室)で、何人もの患者を担当していた。痛みが徐々に和らいできたこともあり、夜明けを待って、いつも通り病院に向かった。歩くことができ、手足の麻痺もなかった。回診をこなして投薬や検査の指示を出した。出血に伴って頭蓋内圧は亢進しているようで、悪心を覚えながらの仕事だった。

 ひと通りルーチンワークを終えると、内科の医師に、「脳内出血をしているようだから、検査をしてほしい」と頼んだ。しかし、葛西が普段通り元気そうに見えたのか、「大丈夫だよ」と取り合ってもらえなかった。

 身の置き所がない違和感と悪心は続いており、昼休みに、脳外科医に同じことを頼んでみた。今度は快く受け入れてもらえたが、やはりそれほど深刻さはなかった。CT撮影室までも車椅子でなくて歩いて行けるほどだった。

 意識はなお明瞭で、CTの検査台に横たわりながら、周囲のただならぬ様子が分かった。放射線科医や脳外科医だけでなく、小児科の医長も駆け付けて、撮影した画像を覗き込んでいた。

 脳内に出血があり、命に関わる事態であることを告げられた。診断名は脳動静脈奇形破裂による脳出血。先天的に脳内の動脈と静脈が「ナイダス」と呼ばれる異常な血管の塊を通じて直接繋がっており、動脈内の血液が静脈へと流れ込む。動脈の高い圧力がナイダスや静脈にかかるため、破裂して脳内出血やくも膜下出血を起こす。

 いったん出血が起きると、再発のリスクは極めて高く、適切な処置が必要で、そのまま入院となった。脳を保護するために脳圧を下げる薬を点滴しながら、心を落ち着かせようと、マルセル・パニョルの人情喜劇をフランス語の原著で読みながら、手術日を待った。

 ナイダスを摘出する手術は、頭部を切開する開頭手術で、専門とする脳外科医にも難度の高い手術だ。血管造影で患部も突き止められたが、右前大脳動脈の一番深いところにあり、術中に出血すると止血が難しいために、命取りになることもあり得た。

 手術前日、葛西の目の前に、夢ともともつかない光景が浮かんだ。天安門広場のような広い広場に1人で立っている。広場の遥か彼方は黒いジグザクの太い帯で境界がひかれていた。帯を越えた先には、「死」がある——。自分が置かれているのは孤独な状況で、恐怖に襲われた。しかし突き詰めれば、そこでは「死」は絶対的なものでなく、相対化されていた。自分はまだ“こちら側”にいる。あちら側へ踏み出さなければいいのだ。臨死体験なのだろうか、手術に対する覚悟が決まった。

 父は腎臓や糖尿病が専門の内科医だった。葛西は母の実家があった新潟県関川村で生まれ、3歳から8歳までを父の勤務先の福島県立病院があった会津若松市で過ごした。父は内科医長で、自衛隊のヘリコプターに乗って雪で孤立した地域の医療支援に出掛けることもあった。地域の人達が必要としている医療を届ける姿は、この当時に刷り込まれた。その姿に憧れて医師を志したが、日本にはないその専門医が世界で「家庭医」と呼ばれていることは、大学5年の時に知った。

「全てを受け入れた上で生きていこう」

 手術当日、当時逗子の病院長をしていた父と、病室で向き合った。万一の場合、残された家族のことを託したいと告げると、父は「そんなことは分かり切っているから心配するな」と手術室へと送り出してくれた。血管塊を摘出する8時間の開頭手術を終え、その後、後遺症もなく退院の日を迎えた。

 何事もなかったように、仕事に復帰した。いや、一つだけ小さな変化があった。発症前より、人生を明るく捉えられるようになったのだ。それが死と向き合った気持ちの変化なのか、脳の深部を手術された影響なのかは知る由もない。

 「死も相対的なもの。生かされたからには、己が正しいと思うことを、人に迷惑にかけずにやっていけばいい。全てを受け入れた上で生きていこうという心構えが、病気の過程で出てきた」

 幸い、その後は大過なく北海道で研修を続け、90年からは、家庭医療学の先進国であるカナダで待望の専門研修を受ける機会を得た。世界の家庭医療学の父、故イアン・マクウィニー教授から1カ月間、マンツーマンで手ほどきを受けた。家庭医としてカナダに残る選択肢もあったが、恩師は、日本で新たに家庭医育成の仕組みづくりをすることの重要さを説いた。背中を押された葛西は92年に帰国後、川崎医科大学総合臨床医学の講師を経て、96年、日鋼記念病院を主体とした医療法人カレスアライアンス(当時)の故西村昭男理事長とともに北海道家庭医療学センターを立ち上げ、初代所長に就任した。

 北の大地で家庭医を育てる道を切り拓き、10年にわたって土台作りに奮闘した後、福島県立医科大学の地域・家庭医療学の初代教授に選考された。子供時代を過ごした福島の地は、懐かしくもあった。他大学にはない福島医大の特徴は、家庭医療学の専門性を考慮して県内に広がる地域で家庭医を育成することを認めてくれたことだ。

 2006年3月、48歳で福島に異動。4カ月後、再び7月に、命を脅かす出来事に見舞われることになった。その日、会津若松の県立病院で、当時講座に唯一の専攻医を指導した後、深夜にホテルの自室で異変が起きた。ボクサーに胸を殴打されたかのような衝撃——。これもただならぬ状況ではないことは、すぐに見当が付いた。  (敬称略)


【聞き手・構成/ジャーナリスト・塚崎朝子】

 

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