SHUCHU PUBLISHING

病院経営者のための会員制情報紙/集中出版株式会社

未来の会

三度の生命の危機から回復できたのは天職だから

三度の生命の危機から回復できたのは天職だから

福島県立医科大学医学部
地域・家庭医療学講座主任教授
葛西 龍樹/㊦


 2006年春、福島県立医科大学の地域・家庭医療学の初代教授職に就いた葛西龍樹は、49歳の誕生日を控えた7月、専攻医を指導後の深夜、ホテルの自室で胸を殴打されたような衝撃を覚えた。合計2発。間隔は10秒ぐらいか。その後しばらくして猛烈な圧迫感が前胸部を襲った。これは心筋梗塞だ、と思った。死に引きずり込まれるような感覚と向き合いながら、映画のワンシーンが脳裏をよぎった。葛西は医学教育の素材としても取り入れているほどの映画好きだ。

「生きろ—」の声でミッションを自覚

 その映画は、『ジョー・ブラックをよろしく』。アンソニー・ホプキンス扮する巨大メディア会社の社長が胸部にボディーブローを浴びたような衝撃を感じる。1発目でこちら側によろけ、とどめを刺すように2発目が襲う。「自分は死ぬのだろうか」の問いに、ブラッド・ピット扮する死神が「そうだ」と。その通りのことが自分の身に起きていた。28歳の脳卒中に次ぐ、生命の危機だ。あの時は夜明けを待ち、自力で病院に行った。しかし今回の症状は圧倒的で、死を覚悟した。「深夜に病院に行けば、迷惑がかかる。どうせ死ぬなら、ここで端座して人生を振り返り死を待とう」。

 しばらくして、それを打ち消すように、「生きろ」という声が聞こえた。映画『もののけ姫』で聞いた台詞とそっくりだった。福島で始めた家庭医療を整備するミッションは、まだ緒に就いたばかり。死ぬわけにはいかない。這いつくばって電話機まで辿り着くと、「心筋梗塞かもしれないから、救急車を呼んでほしい」とホテルのフロント係に告げた。素早い手配で救急隊が到着し、車椅子で救急車へ。患者として搬送されるのは、人生で初めての体験だった。車内ですぐに心電図の電極が貼り付けられた。心筋梗塞を疑う状況証拠はそろっていたが、一縷の望みを抱いていた。夕食時のビールに酔っているだけなのではないか。しかし、自分の心電図トレースをのぞき込むと、その楽観は一瞬にして打ちのめされた。明らかに心筋梗塞だ。

 運ばれた福島県立会津総合病院(当時)は、日中、葛西が専攻医を指導していた病院だ。救急外来に着くと、循環器内科医と心臓外科医の双方がすでに心臓カテーテル室でスタンバイしている、と告げられた。葛西の専攻医も幼子を背負って駆け付けており、葛西が運ばれて来たストレッチャーに一時幼子を寝かせてケアを手伝っていた。

 ニトログリセリン、モルヒネ……救急室でなじみの医師や看護師達が自分の指示できびきびと動いていた——と感じたのは葛西だけで、実は不整脈が多発し意識も低迷して死に瀕しており、指示を出せるような状態ではなかった。危機一髪、熟練の循環器内科医のカテーテル治療でステントが挿入され、二度目の命拾いをした。

 発症前、特に心臓のリスクが高いとは言えなかった。血圧と体重は正常上限だったが、家族歴はなく、血糖やコレステロールも正常、タバコも吸わない。家庭医療学の講座をゼロから立ち上げたばかりで、プレッシャーがかかっていた。ただ、それは日本でこの道を志してからの常だった。

 「一病息災。もっと健康にならなければ」。今回の場合、効果が期待できるのは包括的な心臓リハビリテーションで、それは三つの要素からなる。心血管リスク改善、運動療法、そして心理カウンセリング。ただ日本でこれら全てが整備されている施設は少なく、それならば、と自分でアレンジした。主治医も同僚から紹介された臨床心理士も好意的で、最善を尽くしてくれた。

 北海道大学出身で、学生時代からウィンタースポーツには親しんでいたが、それまで定期的な運動習慣はなかった。そこで病気をきっかけに、ランニングを始めることにした。ゆっくりと強度を上げて、現在は徐々に心拍数を上げて140ぐらい、ウォーミングアップとクールダウンを含めて約1時間のメニューを週に5日続けている。あれから12年が経過したが、心肺機能は高校生並みとのお墨付きだ。レースには出ない。「自分の心拍数を維持できればいいので、人と競わず、季節感を楽しみたい」。雨でも雪でも、小降りなら飛び出していく。

 食生活も改善した。日本で塩分を控えるのは難しいが、1週間を通して取り過ぎないよう合計量を調整する。好きな揚げ物はなるべく避け、会食の席でも野菜や果物を多く食べる。飲酒は昔からたしなむ程度だ。これらの甲斐あって、心筋梗塞発症当時に比べて10kgの減量、腹囲も8cm減らすことに成功して、それを維持し続けている。

一病息災、「ゆる体操」取り入れ健康増進

 2011年3月11日、53歳の葛西を見舞った三度目の生命の危機は東日本大震災だ。太平洋に面する福島県相馬市の公立病院で専攻医を指導中に凄まじい揺れが始まり、崩落の危険がある病棟から患者を避難させなければならなかった。水田に達する津波が見えた。そして、東京電力福島第一原子力発電所の事故。短期間にあまりにも多くの異常事態が起こり、異常と正常の区別ができなくなるほどの精神の危機に直面した。放射線災害の持つ不確実性に懊悩した。善意に癒やされる一方で、悪意に翻弄される日々。社会全体が病んでいた。

 葛西の講座は、福島医大と県との合同対策本部から、自衛隊と共に原発から半径20km〜30km圏内へ行って、残留している住民を探し出して必要な医療を提供するよう指令された。

 発災からわずか1週間余り、空間線量などの汚染状況の情報はなく、子育て中だったり、結婚を控えていたりする若い世代の講座の医師を現地へ送るわけにはいかないと思った。自分が出向くよりない。

 放射線計測器も提供されなかったが、怖いとは思わなかった。ゴーストタウン化した地域を一軒ずつ訪ね歩き、約400人を発見し、入院が必要な3人を搬送した。健康な生活を支える仕組みづくりを提案しつつ、「地域にプライマリ・ケアを根付かせなくてはいけない」との思いを募らせた。

 幸い、その後は健康を害することもなく、教育にも診療にも全力投球している。心臓リハビリテーションに加えて、さらに葛西を健康にしているのは、「ゆる体操」だ。これは、運動科学者の高岡英夫が考案したもので、凝り固まった身体の緊張状態を緩めて、身体能力を高めることを目的としている。ヨガや気功、呼吸法、武術などのエッセンスが盛り込まれ、運動選手から芸術家、デスクワーカー、高齢者に至るまで取り組みやすい。高岡とも会って意気投合した葛西は、ゆる体操の正指導員の資格も取り、被災地の外来や在宅ケアにおいても、この体操を取り入れて診療している。

 「三度生命の危機に遭遇した。でも、どれも間一髪でまた自分の仕事に戻れたのは、それが天職だからだと思う」。福島は3歳から8歳までを過ごした愛着のある土地で、幼少期は会津藩の道場で剣道にも打ち込んだ。「道半ばにせず、福島の地域のために誠を尽くしたい」。利を求めず義に生きる。会津藩士の精神が擦り込まれている。(敬称略)


【聞き手・構成/ジャーナリスト・塚崎朝子】

 

LEAVE A REPLY

*
*
* (公開されません)

COMMENT ON FACEBOOK

Return Top
Translate »