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未来の会

心筋梗塞診断の限界と次の一手

心筋梗塞診断の限界と次の一手

動脈硬化から発症前診断へ見えない時間をどう捉えるか

急性心筋梗塞は、医療の進歩した現代でも「突然起きる病気」として恐れられている。昨日まで普通に生活していた人が、ある日急に胸を押さえて倒れる——その衝撃の大きさ故に、医療側も長らく「発症後に、如何に早く治療へと繋げるか」という点に力を注いできた。

実際、PCI(経皮的冠動脈形成術)を中心とする再灌流療法の進歩や救急搬送体制の整備、急性期管理の改善により、日本の急性心筋梗塞の院内死亡率は、1990年頃の約10%から2015年頃には約5%へと、凡そ半減してきた。しかし、診断技術は進歩したと言われる一方、本当にこの病気を十分早く見抜けているのかという問いは残る。

心筋梗塞は動脈硬化の進行によって発症する

心筋梗塞は、多くの場合、長い年月を掛けて進行した動脈硬化を背景に発症する。冠動脈の壁に脂質や炎症細胞が蓄積し、プラークが形成され、それが不安定化して破綻し、血栓が出来、心筋への血流が途絶えた時に発症する。つまり、危険な変化はかなり前から血管壁の中で進行している。にも拘らず、日常診療で捉えられるのは、しばしば「心筋が傷付いた後」である。

現在、急性冠症候群の診断で中核を成す血液検査は、心筋トロポニンである。心筋トロポニンは、心筋細胞が傷害されると血中に放出される構造タンパクであり、その測定は、心筋障害の検出に用いられる。特に高感度心筋トロポニン検査の登場は、循環器救急の風景を大きく変え、従来なら見逃されていた微小な心筋障害も捉えられる様になった。現在の急性冠症候群診療では、高感度心筋トロポニンが診断の中核に位置付けられ、多くの患者の早期診断と治療介入に寄与してきた。

しかし、トロポニンはあくまで「心筋が傷付いた結果」を示すマーカーであり、血管壁で進むプラークの不安定化そのものを直接反映するものではない。その為、発症の極早期や、不安定狭心症の様に心筋壊死が未だ明瞭でない段階では、トロポニンだけでは診断が難しい局面が残る。高感度トロポニン時代になっても、尚「壊れる前」を血液で捉える課題は残されているのである。

ナルディライジンは発症前の病態を反映する

この問題意識から、新しいバイオマーカーの研究が進められてきた。着目されたのはナルディライジンである。本分子は、心血管領域に於いて血管壁の細胞機能や炎症反応と関わる可能性が示唆されてきた。心筋壊死に先行する血管壁の異常を反映するのであれば、急性冠症候群診断に新たな視点をもたらし得る。そこで、血清ナルディライジンの測定系が整備され、その診断的意義の検証が積み重ねられてきた。

先ず、17年のInternational Journal of Cardiologyの論文では、ナルディライジンが急性冠症候群の早期診断マーカー候補となり得る事が報告された。同研究では急性心筋梗塞だけでなく、不安定狭心症を含む急性冠症候群症例でも血清ナルディライジンの上昇が示され、トロポニンだけでは捉え難い局面を補える可能性が示唆された。重要なのは、この時点で既にナルディライジンが単なる「壊死マーカー」ではなく、より早い病態変化を反映し得る候補として浮上した事である。

更に24年、Internal and Emergency Medicineに報告されたNardi-ACS studyでは、この知見が多施設前向きコホート研究として再検証された。胸痛で救急受診した患者を対象に、ナルディライジンが急性冠症候群の早期診断で高感度トロポニンIを何処まで補助し得るかが評価され、発症早期、特に高感度トロポニンが未だ十分に上昇していない局面で補助的な診断価値を持つ可能性が示された。発症1時間以内ではナルディライジンの診断能が高感度トロポニンを上回る可能性も示され、高感度トロポニン陰性例の一部を拾い上げ得る事が報告されている。17年の初報が「可能性の提示」だったとすれば、24年の報告はそれを一歩臨床に近付けた検証と言える。

但し、過度に期待感を煽るべきではない。新しいバイオマーカー研究で最も重要なのは、面白い差が見えた事ではなく、それが診療を変えるだけの再現性と運用可能性を持つかどうかである。単施設・少数例の結果は、多施設・大規模集団で検証されなければならない。採血の最適時点、腎機能低下や全身炎症による影響、高感度トロポニンへの上乗せ価値——これらが問われる。更に、試薬・装置・カットオフ値を整え、どの施設でも同じ意味を持つ検査にしなければ日常診療には乗らない。研究での発見と現場実装の間には、尚大きな距離が有る。

急性冠症候群の診断は未だ完成していない

それでも、この領域の研究が止まる理由は無い。急性冠症候群の診断は、未だ完成した分野ではないからだ。高感度トロポニンは検査精度が優れているが故に、「これで十分ではないか」という空気が生まれ易い。だが現場では依然、「陰性であれば本当に自宅に帰していいのか」と迷う瞬間が有る。その迷いが残る限り、診断は完成しておらず、新しい指標を探す意味は失われない。問題は、既存の成功体験の上に安住してしまう事なのだ。

今後、AIによる診断支援が更に進めば、急性冠症候群診療は、症状、心電図、画像、既往歴、血液データを統合して判断する方向に進むだろう。その意味では、単独のバイオマーカーだけを追う研究は、やがて少し前の発想に見えるかも知れない。だがAIも、何も無いところから答えを生み出す訳ではない。病態を正しく映す良質なデータが有って初めて、診断支援の精度は高まる。どの血液データが本当に危険な病態を反映しているかを見極める作業は、AI時代になっても不要にはならない。寧ろその重要性は増す筈であり、将来の診断が1つのマーカーで全てを説明する方向に進まない以上、尚更である。

急性冠症候群は、虚血、壊死、炎症、血栓形成、血行動態の変化が折り重なる複雑な病態である。実際の診療では、高感度トロポニン、心電図、症状、画像所見、そして新しいバイオマーカーをどう組み合わせ、どの場面で何を重視するかが問われる事になる。こうした文脈に於いて、新規マーカーの価値は、単独で既存検査を置き換える事よりも、診断の曖昧な隙間を何処まで埋められるかに在る。研究の目標は、新しい数字を増やす事ではなく、見逃してはならない患者をより確実に拾い上げる事であり、その意味でバイオマーカー研究は基礎研究でもあり、救急現場の切実な問いに直接繋がる臨床研究でもあるのだ。

胸痛患者を前にした際に問われるのは、教科書的な説明ではなく、その瞬間に冠動脈で何が起きているのかという一点である。その問いに血液検査で少しでも近付けるのであれば、その意義は決して小さくない。だからこそ、診断の完成を前提とするのではなく、残された盲点を言語化し、測定可能な形にしていく姿勢が求められる。その積み重ねが次の標準診断を生む。

心筋梗塞診療の次の課題は、これ迄の救命率の改善から更に進んで、「壊れてから見つける」医療を、何処まで「壊れる前に察知する」医療に近付けられるかである。17年の初報と24年の前向き検証を通じて、ナルディライジン研究はその問いに対する1つの足場を築いてきた。だが、未だ決定打ではない。急性冠症候群診断の盲点を埋める努力としては、正にこれからが本番である。今問われているのは、これ迄の診断の進歩を称えつつも、その進歩が尚取りこぼしている「一歩手前」を何処まで可視化出来るかであり、その可視化を一歩ずつ積み重ねる事が、次の診断標準への道を拓く。

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