
診療・教育・研究を守り再建する為の戦略を探る
日本の医療の要である大学病院が、岐路に立たされている。大学病院は、高度急性期医療の「最後の砦」であると同時に、未来の医療を担う医師の育成や、最先端研究を進める「中核拠点」でもある。今、その2つの使命を支える基盤が、深刻な財政難で揺らいでいる。
国立大学病院、過去最大の赤字
2025年7月、国立大学病院長会議(会長=大鳥精司千葉大学医学部附属病院長)は都内で緊急記者会見を開き、24年度決算に於ける国立大学病院の経常赤字(経常損益ベース)が合計 285億円に達したと発表した。これは前年23年度の約60億円から大幅に悪化しており、04年4月の国立大学法人化以降で最大の赤字幅とされる。会見で大鳥会長は、医療機器更新や施設整備が滞っているという手詰まりな状況を訴え、このまま支援が無ければ、日本の高度医療を支える大学病院が立ち行かなくなると窮状を訴え、診療報酬改定への理解と財政支援を求めている。
又、現金収支ベースでは、医科附属の42病院合計で213億円の赤字に達しており、財務基盤が既に深刻な状況にある事が示された。人件費が前年比で10%増え、医薬品費は約40%増加し、電子カルテ等の病院情報システムに年間428億円(対象43病院、1病院当たり約10億円)のコストが掛かる事も指摘され、診療報酬による収入では、固定費をカバー出来ずに重くのし掛かっている事が指摘された。
この数字は単なる財務の悪化に留まらず、大学病院が果たしてきた日本の医療の要としての役割そのものに揺らぎを生じさせる。大学病院は高度急性期医療の最後の砦であり、未来の医療を支える教育・研究の中核でもある。これら二重の持続可能性に深刻な影を落とす事になる。
財政悪化を招く構造的圧力
財政悪化の背景には、大きく3つの構造的な圧力が存在している。先ず、外部環境の変化によるコストの増大だ。エネルギーや医療材料の価格上昇に加えて、人事院勧告に基づいて人件費も増え続けている。又、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミック時に実施された補助金が縮小・打ち切られた事も、収益悪化に拍車を掛けた。会見資料でも人件費・薬剤費の増勢が明示されている。
次に、「医師の働き方改革」の本格的な施行がある。24年4月から勤務医に、時間外労働の上限規制(原則年960時間/月100時間未満(A水準)。地域医療確保・技能修得等の特例は年1860時間(B・C水準)が適用された。医師の過重労働は是正され、医療の質・安全の向上に資する事になった。しかし一方で、限られた医師で医療を維持する為には、代替人材の確保や労務管理の高度化が不可欠で、それらは人件費や管理コストの増加要因となる。
更に3点目として、法人化以降の国立大学運営費交付金の実質的減少と病院部門へのしわ寄せがある。国立大学が法人化されて以降、国立大学の運営費交付金は長期的に削減・抑制傾向にあり、大学全体の基盤経費の不足分を病院の医業収益で補う構造が常態化してきた。又、臨床研究中核病院等に求められるデータ品質・監査体制の維持費用も、補助だけでは賄い切れず、経営の重荷となっている。
産科・救急の逼迫と地域医療
この様な状況は、産婦人科や救急科等、特定の診療科に深刻な影響を与えている。例えば、一部の大学病院では、産婦人科の医師不足と過重労働の為、分娩の受け入れを制限せざるを得ない状況が続いている事が各地で報じられている。地域の妊婦が他地域の医療機関への転院を余儀なくされ、地域医療の崩壊が懸念されている。医師の確保は最優先課題であり、働き方改革と医療提供体制の両立が模索されている。
救急医療も同様に、各地で夜間・休日の受け入れ制限が相次いでいる。外科医の勤務上限を守る為、休日の2次救急受け入れを制限した大学病院もある。その結果、周辺の民間病院が逼迫し、救急搬送の受け入れ調整に時間を要する事になる。現場は制度目的(医療の質・安全と働き手の健康)と地域医療の維持という使命の狭間で苦悩している。
経営効率化による再建への道筋
とは言え、大学病院側でもこの状況に手をこまねいている訳ではない。
例えば国立大学病院では、経営効率化の為に、16年から医療材料の共同調達を開始しており、価格交渉力の強化を図っている。医療材料の採用品目を精査して標準品を一本化すれば、年間数千万円規模のコスト削減が可能となる。しかし、外科系医師からは選択肢が狭まるという声も出ており、現場との調整が課題となっている。
又、医師が研究や教育、そして患者と向き合う時間を十分に確保出来ない事へも対応が始まっている。
名古屋大学医学部附属病院では、19年2月に指定研修機関として認可を受け、特定行為研修を修了した看護師を着実に配置している。24年3月迄に78名が修了し、現在は17名が術中麻酔管理や集中治療等で、年間延べ3000件超の特定行為を実施しており、タスクシフトのモデルとして注目されている。医師の負担が軽減されるだけでなく、看護師の専門性を活かす好事例として注目されている。
神戸大学医学部附属病院の場合は、診療科別のDPC分析を踏まえ、手術待機患者数に応じた手術枠の再配分や休日手術の戦略投入、クリニカルパスと退院支援の強化で平均在院日数短縮と病床回転率の向上を図っている。人員制約下でも「枠の設計変更」で入院収益と質の両立を目指す実装である。
制度面では、外来機能の重点化と地域連携が有る。大学病院は紹介患者中心へのシフトを強化し、外来機能報告制度や紹介受診重点医療機関の導入により、高度医療や専門外来への資源集中を進めている。指定された紹介受診重点医療機関は厚生労働省が公表しており、大学病院の多くが対象となる。地域全体での機能分担を促す取り組みだが、地域の基幹病院への患者流入が増加して基幹病院の外来が逼迫したり、待機日数が伸びたりするといった副作用への配慮は検討の余地が有る。
教育・研究基盤の維持と国際水準化
これらの取り組みは、大学病院が担う診療以外の重要な使命である教育・研究を維持する為にも不可欠だ。臨床研究中核病院は現在15病院有るが、24年に承認要件の見直しが行われ、データ品質や監査体制の強化が求められている。更に25年2月には、政府が第3期「医療分野研究開発推進計画」を決定し、臨床研究・治験の国際水準化や産学官連携の加速、日本医療研究開発機構(AMED)による橋渡し・臨床加速化の強化が示された。だが、現場で若手医師が研究に割ける時間は年々減少し、週に1本の論文を読むのも難しいとの声も聞かれる。大学病院の担う使命が、過重労働と財政難の狭間で揺らいでいる。
危機を乗り越える打開策は無いのか。大学病院の危機は、単なる財政問題ではない。日本の医療の未来を左右する構造的な課題である。この危機を乗り越える為には、改めて以下の5つの方向性が鍵となってくるだろう。第1は「タスクシフト/シェアの徹底」で、特定行為看護師や、薬剤師、臨床工学技士等の活用を更に拡大し、医師が診療・教育・研究に集中出来る体制整備。第2は「経営効率化の深化」で、共同調達や標準化の拡充、IT投資による全体最適化で固定費を抑制し、コストの削減と経営基盤の強化を図る事。第3は「外来機能の再構築」で、地域全体で外来の役割分担を進め、大学病院が高度医療に専念出来る体制を構築する事。第4が「働き方改革と医療安全の両立」で、働き方改革が医療の質と安全を向上させるという視点で推進し、その効果をデータで示すこと。そして最後5点目が「研究体制の選択と集中」で、臨床研究・治験に於いて強みを持つ分野に資源を集中させ、国際共同研究を推進する事。
これら基本的な事を通じ、大学病院の医師の時間を「診療・教育・研究」に振り向ける設計変更を改めて推進する事こそが、財政難を乗り越え、持続可能な医療体制を築く鍵となるのではないか。
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