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米留学中に骨軟部腫瘍を発症、根治探る

米留学中に骨軟部腫瘍を発症、根治探る

坂下 千瑞子(さかした・ちずこ)1966年大分県生まれ。92年大分医科大学医学部卒業。東京医科歯科大学血液内科勤務。2004年米国ペンシルベニア大学血液内科の研究職。07年世界最大級のがん征圧活動「リレー・フォー・ライフ」にボランティアとして関わる。11年東京医科歯科大学で医学教育に従事。13年同血液内科勤務。


東京医科歯科大学(東京都文京区)
血液内科特任助教
坂下 千瑞子/㊤

 血液内科医として米国に研究留学中、稀少がんの骨軟部腫瘍が発覚。侵襲性が高いが、根治を目指せる治療に巡り合えたものの、がんは容易に撤退しなかった。サバイバーとなった今、患者との交流やピアサポートに力を入れる。

背中に痛みも原発がんか転移がんか判明せず

 坂下は生まれ育った大分を離れ、東京医科歯科大に入局した。2004年2月、夫の博之の研究留学を機に一家で渡米。医局で出会った夫は呼吸器内科医で、1年半前に娘が生まれた。しばらく子育てに専念するつもりだったが、半年ほどして、ペンシルベニア大で研究職に就いた。

 4月のある朝、背中に鈍い痛みを感じた。当初は寝違えたかと考え、肩を回すなどしてみた。30代後半の働き盛り、大学までバスケットボールに打ち込み、健康自慢だった。背中の痛みは、我慢できないほどではなかったが、2カ月しても消えず徐々に強くなり、左の側胸部についに痺れまで出てきた。異国でかかりつけ医がいるわけでなく、何科にかかれば良いのかも分からなかった。夫の研究先の上司に相談し、すぐに大学病院でCTやMRIの画像検査を受けた。背骨に異変が見つかり、生検を勧められた。しかし、病理でも確定診断には至らなかった。

 2週間、3週間……鈍い痛みを抱えたまま、悪性か良性かも分からず、不安ばかりが募った。米国では、ワシントンの専門機関にコンサルトできる仕組みがある。画像検査から1カ月余りして戻ってきた回答には、「原発不明がんの骨転移の可能性あり」という診断が添えられていた。

 一気に奈落に突き落とされた。骨にできたがんならば、取り切ることで根治の望みが見いだせる。しかし、検査を重ねても原発のがんは分からず、自宅で横たわる日々。大分から両親が駆けつけてくれ、留学仲間もサポートしてくれたが、先が見えずにいた。「もう十分生きて、好きなこともしてきた。自分の運命を受け入れる時なのか……」。

 そんな思いとは無関係に、娘がベッドサイドにまとわり付き、「ママがいい、ママがいい」。何も世話ができなくても、いるだけで喜んでもらえる。「もう少し、生きていてもいいのかな」。

 原発巣が不明であることから、治療の方針は侵襲を避け、最小限の痛みを取る手術をして放射線を照射するという消極治療に固まりつつあった。

 夫ともども米国での研究を切り上げ、日本で治療の道を探ろうと考えた。かつて勤務していた東京都立駒込病院の元上司に相談して、帰国を決意した。帰国後は駒込病院に入院。再度生検などを受けた結果、骨軟部腫瘍の可能性が高いと診断された。

 治療法は、医師である父親も検討してくれた。

 坂下は1966年、大分市内に3人姉妹の次女として誕生。父も血液内科医である。かつて血液内科は、患者を治癒させるに足る薬がなく、敗北の連続だった。67年にアドリアマイシンが登場すると、光明が差し始めた。父は「血液内科は面白い、やり甲斐がある」と吹き込んだ。感化され、小学校の自由研究ではメダカの血液の観察を課題に選んだ。父はその後、地元で病院を開院。坂下は大分医科大学(現・大分大学医学部)に進んだ。

 39歳の坂下が発症した背骨の腫瘍は2椎体に及び、大がかりな手術になる。腫瘍だけを摘出すれば、がん細胞が散らばり再発の危険が高まる。腫瘍に侵された脊椎骨を丸ごと摘出する「腫瘍脊椎骨全摘術」という金沢大学で開発された手術があった。切除後は正常な骨盤の骨を砕きチタン製の筒に詰めたものを挿入、脊椎を再建する。

 米国にいた坂下は、その治療法を調べて可能性を見出していた。父も金沢大にこの治療法について問い合わせ、資料を取り寄せていた。駒込病院の主治医からの紹介で、手術を受けられることになった。保険診療と併用できても、その当時の高度先進医療で200万円かかる治療だった。

先進医療で背骨を切除するも1年で再発

 「根治を目指せる」と希望を抱いて、手術に臨んだ。11時間に及ぶ手術の後、「無事取り切れた」と報告を受けた。しかし、大いに後悔することになる。術後の痛みは想像を絶するレベルだった。1週間してやっと上半身を起こしてみたものの、座位を保つのは数十分が限界だった。背骨に負担がかからないよう、リハビリ用装具を着けてそろそろと起き、3カ月しても、3時間がやっとだった。

 回復は緩やかで、2歳になっていた娘を抱くことは叶わなかったが、膝に抱えられるまでになった。背骨を固定しているチタン製の筒は、体をよじると捻れる可能性があるため、後ろを振り向けず、自動車の運転はできなくなった。転んだ場合はリスクが高いと、自転車にも乗れず、階段は手すりを使いながらこわごわと上るようになった。

 手術から1年が過ぎる頃には、日常が戻ろうとしていた。「姿勢が良いと言われていたが、本当に筋金入りになった」と、笑う余裕も出てきた。そんなある日、下腹部に痛みが走った。婦人科系の疾患ではないかと考えたが、MRIを撮ると、腰椎に2カ所の腫瘍が見つかった。転移なのか、以前からあったものかは不明だったが、明らかに再発だった。

 今回は合併症のリスクが大きく、切除術は勧められないと、主治医に告げられた。難手術の後遺症に堪えた後で、ショックは大きかった。放射線科医などの意見を入れて再度検討し、重粒子線治療と抗がん剤の組み合わせで、根治を目指せる可能性が見え始めた。重粒子線は、従来の放射線に比べると線量集中性が高く、高い生物効果により軟部腫瘍にも有効だと見込まれた。こちらも当時は高度先進医療で、自己負担は300万円だ。

 千葉市の放射線医学総合研究所重粒子医科学センター病院(現QST病院)で週4回照射し、週末は夫と娘が暮らす大分に帰り、家族から元気をもらった。その後、駒込病院で6クールの化学療法。最強の抗がん剤の組み合わせで、髪はすべて抜け、嘔気で食事も取れない中、娘の笑顔が救いだった。

 入院中、テレビで偶然、「リレー・フォー・ライフ」を知った。米国で始まった活動は、がん制圧への願いを込め、がんと向き合う人の絆を深めるため、患者・家族、支援者が夜を徹して歩いたり、サバイバーと語り合うイベントを開催したりしている。「サバイバーとして、来年は、あの場に立とう」——その願いは簡単には叶えられなかった。 (敬称略)

 

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