
「ゆっくり急ぐ」——。トランプ米政権との関税交渉を巡って石破茂首相が発した言葉が様々な解釈と共に広がっている。日本の行方に大きく関わる「交渉の神髄に触れた絶妙な言葉」との評価も有れば、参院選、更にはその後の政局を踏まえた「石破首相の政権運営の肝だろう」との深読み、「意味不明のごまかし、只の迷言」との皮肉な見方も有る。深い意味を持たないフラットな物言いが全盛の現代にあって、政界でも言葉の含蓄を貴ぶ気風は廃れている。政治は言葉の芸術とされる。的を射ているかどうか、中身の評価は別にして、少しは味わいの有る言葉を聞いた感じはする。
「ゆっくり急ぐ」は「ゆっくり」と「急ぐ」という、相反する意味合いの言葉を連ねた造語だ。物理的な思考からすれば、ナンセンスの類だろう。故事来歴を好む政治の世界では、少し意味が違ってくる。「ゆっくり」は確実に結果を得る為の対処の事を言っている。一つ一つの行程に時間を掛けて細心の注意を払い、着実に熟して行く事が最も早く良い結果を得る事に繋がるという意味である。似た様な言葉に「急がば廻れ」等が有る。
「ゆっくり急ぐ」の原点は欧州に有る。出典を確認出来る最古はローマ皇帝アウグストゥスの言で、古くから文人・著名人らが座右の銘にした事で知られる。英語では≪Make haste slowly.≫で、意味は「良い結果により早く至る為にはゆっくり行くのが良い」である。同時に「歩みが遅過ぎても求める結果は得られない」も意味するという。
石破発言が注目されたのには背景が有る。少し複雑なので記者団とのやり取りをもう少し見てみる。
発言したのは5月2日。赤沢亮正経済再生相が2度目の訪米で閣僚級協議に臨んだ後である。赤沢氏は交渉後、記者団から問われ、6月中の合意の可能性に含みを持たせた発言をしていた。
記者「赤沢さんが6月中の合意に言及したがどう考えているのか」
石破首相「これは『名言』と言えば『名言』なのだが、『ゆっくり急ぐ』という事なのであって早ければ良いというものではない」
記者の質問には政局展望の伏線が有る。キーワードは「6月中」だ。要は7月の参院選前に日米交渉が決着するのか、しないのかを聞いているのだ。
関税交渉と参院選の折り合い
参院選前に決着すれば、トランプ関税という国難への対処という緊急事態は回避される。当然、「国難だから現政権を支えるしかない」という政界のコンセンサスは無くなり、政争モードのスイッチが入る事になる。石破政権の政局運営は難しくなるのだ。
立憲民主党幹部が語る。
「石破さんの『早ければ良いという訳ではない』という言葉に本音が滲み出たね。そら、参院選で『国家、国民の為に国難に対処しているから、石破政権を支えて下さい』と言われれば、国民は我慢するだろうよ。与党に俄然有利だ。でも、トランプ大統領は焦っているんでしょ。欧州諸国は日本とか韓国みたいに優しくないからね。日本から有利な条件を引き出して、実績として掲げ、欧州との交渉に備えたい。参院選の7月下旬まで待てるかね。俺はそうならないと思うな」
自民党のアンチ石破勢力も同様だ。「石破は国難と称して、日本の危機を政権運営に利用している。狡猾だな。参院選で勝てば、石破政権は完全に足場を固めてしまう。日米交渉も上手く乗り切れば、大きな実績になる。不得手と見られた外交でポイントを稼がれたら、石破の次の芽まで出てしまうな」
勿論、トランプ大統領は先の読めない難物だ。上手く進んでいる様で、実は破滅に向かっている事だって有り得る。
自民党幹部がその辺も踏まえて語る。
「今回の日米交渉は上手く熟したとしても、日本は手痛い傷を負う。トヨタやホンダは上手く米国生産の道を切り開けるのだろうが、中小企業はそうは行かない。農業分野だって同様だ。コメの輸入は工夫出来るのだろうが、只でさえ危機に瀕している米作の将来への影響は無視出来ない。牛肉も同様だ。交渉を纏めた後、国内でどう折り合いを付け、新たな道筋を示して行けるのか。参院選で問われるのは実はその点だろう。余程、心して掛からないと政権も手痛いダメージを負う。日米交渉はゆっくりで構わないが、国内対策は不眠不休、迅速果敢でないといけない」
各種団体との繋がりが深い自民党幹部ならではのポイントを押さえた指摘だが、やはり、カギを握るのは交渉の中身という事だろう。日本はさして痛まないが、トランプ大統領が米国支持者に満面の笑みでアピール出来る様な落とし所は有るのか。
その日米交渉の最前線で、俄かに知名度を上げているのが、先に登場した赤沢氏と加藤勝信財務相の2人だ。
石破政権の助さん格さん?
共に東京都出身で東大卒の官僚出身者である。赤沢氏は政治家だった祖父・正道元自治相(現:総務相)の養子、加藤氏は安倍晋三元首相の父晋太郎元外相の懐刀とも言われた六月元農相の娘婿だ。
赤沢氏は小泉純一郎元首相が郵政民営化反対議員に差し向けた刺客としてデビューし、以後、7回の当選を重ねている。前回の総裁選で、同じ鳥取県に根を持つ同士として石破首相の推薦人になり、事務総長を務めた。石破首相からの信頼が厚く、石破政権の要石等と呼ばれる。明るく、人懐こい性格で、メディアの評判もいい。SNS等も多用し、2度目の閣僚級協議に向けた羽田発の航空機から午前11時6分に「米国に行って来ます。おやすみなさい」とポストし、「#寝るの早え〜し!」とハッシュタグを付けたのが話題になった。赤沢氏はトランプ大統領が顔を出した事で話題になった1度目の閣僚級協議でも事後の記者インタビューで、周囲のスタッフに「お茶かなんかない?」と声を掛け、直ぐ様ペットボトルが差し出された事に「おっとっとっと、早え〜し」と言って、ごくりと飲み込むテレビ映像で話題になった。「寝るの…」はその第2弾という訳だ。「早え〜し」というワーディングと、国益を背負った大交渉直後の軽いノリが「何だかほっこりさせる」と茶の間の人気も上々だ。
一方、加藤氏は旧額賀派でありながら、安倍元首相に近い存在として重用されて来た。次期総裁候補の1人とも目され、前回の総裁選にも立候補したが、結果は最下位の9位で、石破首相に敗れている。人材登用に腐心した石破首相の誘いで財務相に就任し、現在に至っている。
髪の毛が所謂、剛毛で、付けられたあだ名は「たわし」。
赤沢氏が米国で協議に臨んでいた5月2日、テレビ東京の報道番組で、「日本が保有する米国債が関税交渉のカードになるのか」について肯定的に発言し、関係筋を唸らせた。加藤氏は関税交渉を巡り、日本が保有している米国債の取り扱いを交渉材料として使う可能性を聞かれ、「交渉カードとしては有る」との認識を示した。更に「(株式、国債、ドルが同時に売られる)トリプル安も背景にいろいろな事が動いている」と米国を取り巻く現状について言及。米国債について「米国を支援する為に持っている訳ではなく、いざとなれば(為替)介入する為の流動性を考えながら運用している」との立場を鮮明にした。
加藤氏流外交「たわしの棘が突き刺さる」
経済に詳しい自民党中堅は「メディアを通じて米国にも伝わっている。『日本は温厚に見えるが下手に触るとたわしの棘が突き刺さるぞ』という、正に棘の有るメッセージだったんじゃないか。胸のすく思いをした人も多いと思うね。実際に米国債を売れるかというと疑問なんだけど、まあ、米国が上で、日本が下ではなく、土俵は同じなんだという意味合いはトランプさんにも伝わっていると思うね」と論評している。
人触りはソフトだが、当意即妙に動ける赤沢氏と、質実剛健で武闘派も匂わす加藤氏。石破首相に近い自民党幹部はこんな事を言っている。
「水戸黄門で言えば、助さん格さん的な存在になって来ている。この2人が上手く機能する様なら、石破政権は案外固い」。

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