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私の海外留学見聞録 ⑳ 〜マサチューセッツ総合病院(MGH)留学と築いた人脈〜

私の海外留学見聞録 ⑳ 〜マサチューセッツ総合病院(MGH)留学と築いた人脈〜

許 俊鋭(きょ•しゅんえい)
地方独立行政法人東京都健康長寿医療センター  センター長
留学先: 米マサチューセッツ総合病院(MGH)(1981年1月〜82年5月)

東大・三井記念病院での補助人工心臓との出合い

1974年9月、東大紛争の影響を受け半年遅れで医学部を卒業し、鉄門ボート部の高本眞一先輩(前東大胸部外科教授・三井記念病院長、現賛育会病院長)の勧めで三井記念病院外科に入局した。医局は往年の東大・木本外科の気風が満ち、若手は殆ど病院に泊り込み、世界の外科論文を競って読み、一例でも沢山の手術で手洗いができないかと無我夢中で頑張っていた。その日の手術患者の状態が安定した夜8時頃から最上階の動物実験室で始まる高本先生の補助循環の実験助手をし、学生時代に夢見た東大医用電子・渥美和彦教授(鉄門ボート部先輩)が開発した東大型補助人工心臓(VAD)の臨床導入準備に邁進した。臨床では三井記念病院と神戸中央市民病院(当時)で始まったAVCO社製IABP(Model-7)の臨床治験に参加し日夜奮闘した。

80年に東大はヤギを用いたVAD装着実験で世界最長生存記録を打ち立てた。同年3月に熱海で開催された「第8回AHACの会」で曲直部寿夫国立循環器病研究センター病院長が「東大型VADの完成度は臨床応用の域に到達している。諸君、勇気をもって臨床に進もうではないか!」と檄を飛ばされ、私は体が打ち震えるほど感銘を受けた。2カ月後の5月、三井記念病院で心胸比85%の末期連合弁膜症例が周術期心筋梗塞のためVAB+IABP補助が必要となり、2日後にVAB離脱困難となった。渥美教授の指導の下で日本初の東大型VAD治療が実施された。残念ながら救命はできなかったが患者さんは3日間生存し、この手術経験がその後の私の「心臓移植・人工心臓人生」を決定づけた。

MGH留学と研究生活

81年に高本先生の後を継いでMGHに留学し、M.J. Buckley心臓外科教授・W.G. Austen外科主任教授指導によるNIH Grant「ダイナミックパッチ型VADの開発」研究に従事した。

ボストンに到着したのは80年12月25日の雪の降る寒い日であった。ニューヨークでの乗り継ぎで手荷物がリオデジャネイロに送られてしまい、親子4人着の身着のまま荷物到着までの3日間をモーテルで過ごした。ローガン空港に迎えに来て頂いた鉄門ボート部の島田和幸先輩(元自治医科大学病院長、新小山市民病院理事長兼病院長)には住居が決まり落ち着くまで、何から何までお世話になった(感謝)。

研究生活はAusten・Buckley両教授の指導の下、3人のリサーチフェロー(C.D. Liapis君、W.C. Nugent君、C.H. Tsai君)に助けられ順調にスタートした。一方、英語には本当に苦労した。実験動物や医療器材は全て電話注文が必要で、最初の1〜2カ月はよく電話を途中で切られた。1カ月9ドルの市内電話無制限契約に加入し、罪深い話だが、毎晩Yellow Pagesを片手に市内のレストランやホテルに予約とキャンセルの電話を掛け捲った。3カ月たった頃から仕事の電話も途中で切られなくなった。研究室では、ギリシャから来たLiapis君の実験のVAD植込手術が失敗続きだったにも拘らずAmerican College of Surgeons(ACS)投稿のAbstractが採用されたため、Buckley教授の指示で私がLiapis君の実験を補助し、2人で力を合わせ3カ月で論文作成に必要な実験データを纏めることができた。感激したLiapis君は共著者でなかった私を学会と交渉し、論文発表時に共著者にしてくれた。MGH留学後3カ月にして1つ目の論文(Surgical Forum 1981;32:244)が出来上がったのは、実に幸運であった。私自身の論文発表は、シカゴで開催された第27回アメリカ人工臓器学会(ASAIO)でのダイナミックパッチ型VAD論文(ASAIO TRANSACTIONS 1982;28:557)が最初であった。この時、IABPの開発者A.R. Kantrowitz教授は面白いと褒めてくれたが、奥さんのJeanには自分達の「大動脈パッチ補助循環システムの猿真似」とこっぴどく非難された。奇しきもので、2017年に同じシカゴで開催された第63回ASAIOで35年ぶりに現役のJean(95歳、President at L.VAD Technology, Inc)と再会し、昔話に花を咲かせた(写真①)。

AVCO Everett 研究所のTAH開発に参加

留学時代に私の人生に大きな影響を与えた事は、AVCO Cardiac Assist Program “Fully Implantable TAH”の開発にAusten教授の指示で参加した事である。AVCOは1955年にKantrowitz教授が設立したIABP製造企業で、私にとっても因縁深い会社であった。

Austen・Buckley両教授がKantrowitz教授の共同研究者であったことから、TAH開発にも同僚のNugent君が派遣されていた。残念ながら初期の動物実験で不成功が続き、私が交代するよう命じられた。英語が殆ど通じない私を面接した研究所側は、Austen教授に私の採用を断ったが、教授が私の人工心臓研究実績を保証し、手術担当外科医として採用された。初日は地下鉄を乗り継ぎ、迷いながら研究所に辿り着いたが、子牛への植込手術が順調にいくや否や、その次からはタクシーが迎えに来るようになり、更に次からは手術後のディナーもセットされた。現金なものである。加えてMGHの研究室にも研究費が補助され、私の研究に必要なダイナミックパッチ型VAD(AVCO社製)の購入費用の心配もなくなった。このTAHは、20年後にAbioCorとしてヒトへの臨床使用が始まった。この時のTAH植込手術経験は、後の日本の植込型LVAD臨床導入に大きく役立った。

Impella本邦導入に貢献したMGH人脈

留学から帰国後も“Prof. Austen's Alumni”として私達とAusten・Buckley両教授との師弟関係は続いた(写真②)。2008年に東大で高本胸部外科・永井循環器内科両教授の世話で「重症心不全治療開発講座」を立ち上げ、Impella 2.5 の心原性ショックに対するリカバリーデバイスとしての有効性を第66回ASAIOで報告した。

09年にAusten教授が会長として頑張っておられるABIOMED本社を訪問し、Minogue社長、Greenfield副社長(現社長)からも大歓迎を受けた(写真③)。それまでSupported PCIデバイスとして販売していたImpellaを心原性ショックに対するリカバリーデバイス(経皮的左心VAD)として適応拡大すべきと提言し、日本心臓血管外科学会・心不全学会を代表して早期本邦導入を依頼した。米国FDAは16年に心原性ショックに対するリカバリーデバイスとしてImpellaを承認し、日本でも17年に保険償還された。Austen教授は昨秋亡くなられたがMGH留学で得た40年に亘る人脈がImpellaの本邦導入に良い結果をもたらしたことに、今更ながら若い時代の留学の意味をかみしめている次第である。

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