
昨年末12月28日付の日本経済新聞に、医療に携わる者として考え込まずにはいられない見出しが掲載された。目にした人も多いだろう。その見出しは以下のようなものだった。
「医師3割『不要な入院させた』 病院の指示も、医療費膨張の一因に」
記事は、日経新聞と関連する医療情報サイトが行った共同調査をもとにしており、医師の約30%が「過去1年間に不要な入院を患者にさせた経験がある」と回答した、という結果が示されていた。
まず最初に述べておきたいのは、この調査や記事そのものを否定したいわけではない、ということである。国民医療費の膨張が日本社会にとって深刻な課題であり、医療の提供のあり方を見直す必要があるという問題提起自体は、現場の医師の多くが共有している認識だろう。むしろ、こうした議論が可視化されること自体には、一定の意味がある。
その「不要」は本当に「不要」なのか?
ただし、その入口として用いられる言葉が、「不要な入院」であることに、私は強い引っかかりを覚えた。
記事では、「入院の必要性が低い人を入院させた」「退院可能な人を入院させたままにした」といったケースが「不要な入院」に含まれると説明されている。
しかし、この定義は、臨床の現場で日々判断を迫られている医師の感覚からすると、どうしても粗く、平面的に感じられる。
見出しだけを追えば、「医師が不要な入院をさせ、医療費膨張の一因を作っている」という構図が浮かび上がる。だが、実際の現場は、そのような単線的な因果関係では語れない。
近年、「無価値医療」「低価値医療」という言葉が注目を集めている。筑波大学の宮脇敦士准教授らの提言を背景に、風邪に対する抗菌薬処方や、一部の咳止め薬、腰痛に対する特定の鎮痛薬など、エビデンス上の有効性が乏しいとされる医療行為が例として挙げられている。これらの議論は、医療の質を高めるために重要である一方で、「医師が漫然と、あるいは経営的理由から過剰な医療を行っている」というイメージを社会に与えやすい側面も持っている。今回の「不要な入院」という言葉も、その延長線上にあるように感じられた。
興味深いのは、調査結果を丁寧に読むと、不要な入院をさせた理由として「病院から病床利用率を高めるよう指示された」という回答が約40%近く存在するものの、それ以上に「患者本人や家族の要望」という回答が50%近くを占めていた点である。
この結果は、現場で診療をしている医師にとっては、むしろ現実に則したものだろう。
私が勤務している地域の診療所でも、同様の場面は日常的に目にするものである。医学的には緊急入院が不要と判断される状態であっても、患者さんの生活環境や心理状態を考えると、「今日は自宅に帰すことができない」と判断されるケースは確実に存在する。
もし医療判断が、検査値や診断名だけで完結するものであれば、話は単純だろう。将来、AIが医療を担うようになれば、同じ病状であれば同じ結論が導かれるのかもしれない。しかし、現実の医療は、患者さんその人の生活と切り離して存在することはできないのだ。
たとえば軽症の市中肺炎の場合、患者さんが家族がそばにいて服薬管理や食事の世話ができる環境にある人であれば、自宅療養で乗り切れることが多い。一方、独居の高齢者では状況は大きく異なる。あるいは施設に入所していても、人手不足のため服薬管理が十分にできない、夜間の観察がむずかしいという現場も少なくない。そうした場合、「やむを得ず入院」という選択がなされるのは不自然なことではない。こうした判断の積み重ねが、統計の上では「不要な入院」という一語に回収されてしまう。
私自身、今も心に残っている経験がある。
個人情報を曖昧にしながら書くが、「最近、徘徊が増えてきたので、入院させてほしい」という家族からの相談を受けたケースだった。その人は認知症の専門医を受診したこともなく、当診療所に定期的に通院していたわけでもなかったため、生活背景を十分に把握できていなかった。私は「内科的な問題もないのにいきなりここに入院というわけにはいかない」と考え、とりあえずは家族での見守りと専門医受診を勧め、診断がついた段階で介護認定を受け、その後の医療やケアについて考えていきましょう、と説明した。だがその週末、その人は再び家を出てしまい、遠方で衰弱した状態で発見された。家族には事情があり、十分な見守りができない状況だったのだ。
見守りの必要性やそうできなかったときの危険性などについても説明しており、こちらの対応が間違っていたとは思わない。しかし、あとから考えると、家族にはすでに介護する余力がなかったのだから、やはり医療的には適応にならなくとも緊急入院という選択をしておくべきだったのではないか、とも思われた。その自問は、今も消えない。
医学的エビデンスだけを基準にすれば、「入院しても治療効果は乏しい」と判断されるケースであっても、入院させなければ生命や安全が脅かされる現実は、確かに存在する。同様に「低価値、無価値」と思われる医療でも、その患者さんにとってはどうしても必要という場合もあるだろう。現場の医師たちはその現実を痛いほど知っている。
「そのときの最善」を考えつつ
医療費抑制の必要性を理解しつつ、個々の患者の生活や背景に目を閉じることはできない。その狭間で、私たちは日々「その時点での最善」と思われる選択を重ねている。そこには、統計には現れない迷い、逡巡、そして後悔が必ず伴う。
「不要な入院」「無価値医療」という言葉は、制度設計や政策議論の場では便利な概念かもしれない。とはいえ、臨床の現場では、その一言で切り捨てられない判断が積み重なっていることを、この問題の研究者や施策を行う人たちにも忘れてほしくない。
医師に求められているのは、「不要かどうか」を単純に仕分けることではなく、限られた資源の中で、どこまで一人ひとりの人生に責任を持つのか、という問いに向き合い続けることなのだと思う。ときには「不要」と言われても、「いや、今のこの人にとってこれは必要だ」と反論せざるをえない場面もある。今回の日経新聞の記事は、その問いを私たちに突きつけたという意味では、重要な契機であったのかもしれない。私たちは医師は、こういった記事が出た今だからこそ、「不要な入院」という言葉の背後にある現実を、現場から丁寧に語り直し、発信していく必要があるのではないか。
患者の暮らしに最も近い場所にいる臨床医として、私たちはこれからも、その複雑さを引き受けながら診療を続けていくしかないのだろう。同時に、患者さんや家族の要望を「入院? 必要ないですよ。そんなことさせたらまた『不要な入院』なんて新聞に書かれてしまう。ダメと言ったらダメです」などと切り捨てることなく、「なぜこの人は入院しなければならないのか」という観点からともに考え、「そのときの最善」を選択できるようにしていきたい。2026年も波乱の年となりそうだが、「この仕事をしていてよかった」という満足感をかみしめられる年になればと考えている。



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