
①生年月日:1961年10月7日 ②出身地:愛知県 ③感動した本:『競争優位の戦略』(M. E. ポーター)、『歴史の終わり』上・下(フランシス・フクヤマ)、『銃・病原菌・鉄』上・下(ジャレド・ダイアモンド)、『ホモ・デウス』上・下(ユヴァル・ノア・ハラリ)④恩師:山内一信先生(名古屋大学)、田中洋先生(中央大学)、田尾雅夫先生(京都大学)、長谷川敏彦先生(国立医療・病院管理研究所)、田中滋先生(Keio Business School)⑤好きな言葉:「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」⑥幼少時代の夢:社会貢献、医師 ⑦将来実現したい事:経済に精通した医療人を育てる。世界に羽ばたく病院を作る
文学少年から社会貢献に繋がる医師の道へ
愛知県名古屋市に生まれ、穏やかな両親の下で自由奔放に育ちました。幼少期はSFドラマシリーズの『宇宙大作戦』に夢中になり、いつか自分でも小説を書いてみたいと思う様になりました。実際、後に推理小説を書いた事もあります。小・中学校は公立校に通い、卓球部に所属しました。高校は愛知県立旭丘高等学校(愛知県名古屋市)に進学し、テニス部に入部したものの、あまりのスパルタ振りに3日で退部。E.S.S.(English Speaking Society)部に転部し、ウィリアム・シェイクスピアの作品やオー・ヘンリーの『最後の一葉』等を英語で演じました。
祖父が寺の住職をしておりましたので、サラリーマンとして一生を送るよりは、社会貢献に繋がる仕事に就きたいと思っていました。叔父が東京で勤務医をしていた事から、医師になる事が1つの選択肢になりました。弁護士になりたい気持ちもありましたが、最終的に医師を選択したのは、やはり結核予防会複十字病院で院長として活躍した叔父の影響が大きかったように思います。高校2年の夏に医学部受験を決意し、高校3年で理系コースへと進みました。
大学のクラブでマネジメントを経験
東京への憧れを抱きながらも、予備校時代を経て、市内の名古屋大学医学部に進学しました。医療経済や医療経営に興味を持つ最初の切っ掛けとなったのが、合唱クラブへの入団でした。団長となり、30〜40人もの団員を取り纏める大役を仰せつかったのです。そこで、マネジメント力の必要性を感じ、経営学者のピーター・ドラッカーを始めとする経営学の本を読み耽る様になりました。
糖尿病・内分泌内科を選択したのは、チーム医療を実践するのに最も適していると感じたからです。特に全身を診る糖尿病治療では、看護師、薬剤師、管理栄養士、理学療法士といった多職種との連携が不可欠です。とは言え、当時の国立大学はチーム医療を実践するには不十分な環境と思い、そこで医局を離れ、市中病院である名古屋第一赤十字病院(現在の日本赤十字社愛知医療センター名古屋第一病院)で研修を受けた後、藤田保健衛生大学(現在の藤田医科大学)の大学院に入学し、博士号(医学)を取得しました。その頃から、心のどこかで「日本の医療制度はこのままで良いのか」「患者の為の医療になっているのだろうか」と疑問を感じる様になりました。
米国で目の当たりにした医療制度の違い
臨床医として8年間勤務した後、米国ニューヨーク州に在るコーネル大学医学部でポスドクとなりました。当時私は臨床薬理学の研究をしており、研究室には製薬企業の研究開発部門の方が多く出入りして、医師と対等に議論を交わしていたのが印象的でした。それからニューヨークのPharma Forumという非営利団体から誘いを頂き、米国の医療経済について学びました。そこで目の当たりにしたのは、日本と米国での医療制度や医療ビジネスに対する考え方の違いでした。特に、米国では保険の加入の有無や種類によって受けられる医療サービスが異なるというのは、私に新たな視点を与えてくれました。
留学先で出会った教授からの助言もあり、1997年に帰国して外資系の製薬企業に入社し、臨床開発の仕事を通して世界の医療制度について学びました。それから国立医療・病院管理研究所で医療経済学や医療経営学等を学び、英国レスター大学大学院でMBAの資格を取得しました。その後は大和総研に入社し、主任研究員としてマーケティングの仕事に従事しました。
医療マネジメントを専門として新たな博士号を取得
医師として、病院勤務に留まらない経験を積む中で、名古屋大学で医療管理情報学を専門とされていた山内一信教授の教室に受け入れて頂き、患者満足度に関する調査を行う機会を得ました。そこで分かったのは、医師が考える最善の医療は、患者が望む医療とは異なるという事。やはり医療にはマーケティングの視点が必要なのだという事を確信しました。
やがて、マーケティングという学問について医療に適応する形で新たに博士号を取得したいと考えるようになった私は、当時法政大学で教鞭を執られていた田中洋先生の下で学ぶべく、大和総研に勤めながら法政大に入学しました。結果的に、これは新しい分野の学問であるという事で、博士号を取得する事無く、満期退学となりました。
その後に指導を仰いだのが、京都大学大学院の田尾雅夫先生です。既に書籍を上梓していた事もあり、田尾先生から改めて博士号の取得について助言を頂き、2001年に「医療における医師への管理の問題点—日本と米国との比較—」という、医療マネジメントに関する論文を発表しました。これにより、京都大学で経済学の博士号を取得しました。
05年に、大和総研を辞した後に移り、シニアアナリスト等を務めた旧大和証券SMBCを退き、多摩大学統合リスクマネジメント研究所(当時)では10年以上教授として勤めました。18年には、田中先生が法政大学から中央大学へ移られた事も有り、多摩大学大学院の特任教授と中央大学大学院戦略経営研究科の教授を専任で行う事になりました。中央大学はAMBA(アンバ)によるMBAの国際認証を取得している国内では数少ない機関です。元々が文系の大学の為、医療分野に限らず様々な業種の受講生が集まり、新たな発想が生まれる場としても機能しています。
日本の医療が世界に羽ばたくのも夢ではない
『日本の医療、くらべてみたら10勝5敗3分けで世界一』(講談社)を出版した17年当時は、医療へのアクセスや社会保障等を総合的に見て、日本に勝る国は無いと判定しました。しかし、日本の素晴らしい国民皆保険も、高齢化や医療の高度化に伴い、限界寸前のところへ来ています。社会保障で賄うべき医療と、自費診療を区別する事が喫緊の課題だと思います。
日本経済がインバウンドに望みを掛ける中、医療分野では医療ツーリズムへの期待が高まっています。これは私が15年以上前に出版した『グローバル化する医療:メディカルツーリズムとは何か』(岩波書店)という本で提言した事です。日本の病院がこうした取り組みによって十分な収益を確保出来るビジネスモデルを確立した上で、業界の垣根を超えて高度医療技術の開発に思う存分力を注げば、日本の医療・病院は世界へ羽ばたく事が出来るでしょう。その為に、私自身は経済に精通する医療関係者の養成を続けて行きたいと思います。数十年後も、「日本の医療が世界一」と胸を張って言いたいものです。
インタビューを終えて
真野先生には日頃より大変お世話になっている。2016年に開始した弊社主催の「日本の医療の未来を考える会」では、「問題点の整理と提起」をテーマに第1回の講師をお願いしました。当時、今は亡き髙久史麿先生や渥美和彦先生をはじめ多くの医療経営者の前で、医療を大局的な視点から語って頂いた事を懐かしく思い出す。お陰様で本会は89回を数え知名度も上がりました。又、15年9月号からの連載「『日本の医療』を展望する世界目線」も好評で、今月で第119回となる。毎号入稿される原稿に編集局も鍛えられてきた。今後の更なるご活躍が益々楽しみである。(OJ)
鴨とフォアグラのパテ・クルート
ザ・プレミアム・モルツの深いコクと好相性の逸品は、「パテ・クルート世界選手権2019」優勝者の塚本治シェフのスペシャリテ。50種超の素材が織りなす長い余韻とエレガントな味わいの逸品。
タワーズレストラン クーカーニョ
東京都渋谷区桜丘町26-1 セルリアンタワー東急ホテル40F
03-3476-3404
11:30〜14:00(L.O.)
17:00〜20:00(L.O.)
無休
https://www.tokyuhotels.co.jp/cerulean-h/restaurant/coucagno/
※営業日・時間に変更がある場合がございます。
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