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未来の会

第3回 私と医療 ゲスト 草野 敏臣

第3回 私と医療 ゲスト 草野 敏臣

ゲスト 草野 敏臣
医療法人社団ミッドタウンクリニック理事長

草野敏臣(くさの・としおみ)①生年月日:1950年9月11日 ②出身地:長崎県 ③感動した本:「心」稲森和夫 「THE PUZZLE PEOPLE」Thomas E. Starzl ④恩師:古川正人 国立長崎中央病院 外科部長 ⑤好きな言葉:「自利利他」「厭離穢土 欣求浄土」 ⑥幼少時代の夢:航空機、自動車の設計士あるいは、操縦士 ⑦将来実現をしたいこと:家族運営会社の設立

——ご出身はどちらですか。

 1950年9月、長崎県南高来郡小浜町(現雲仙市)で温泉旅館を経営する裕福な家の長男に生まれました。小浜温泉は雲仙国立公園の西麓に位置し、風光明媚で放熱量日本一として有名です。祖父も父も私も揃って寅年生まれの「トラトラトラ」です(笑)。父親は戦時中に早稲田大学を中退し戦後の混乱期に家業を引き継ぎ、母親は曹洞宗の寺の生まれで当時の女性としては珍しく師範学校を出て音楽の先生に。小学校は町立小浜小学校です。海を囲む小浜町の子供の夏の遊びは海水浴しかなかったので3kmの遠泳をするまでになっていました。

——小・中・高校時代はどのような学生でしたか。

 小学校の成績はクラスのトップでした。名門の長崎大学教育学部附属中学校に無事に合格しましたが、家から30kmと遠く下宿を始めました。そのまま長崎の県立高校に進学する予定でしたが、成績も良かったので鹿児島ラ・サールに外部受験を試みました。鹿児島ラ・サールは全寮制で、多感な青春時代を多くの仲間と過ごした日々の経験は私の財産ですね。先月(2019年11月8日)卒業50周年の祝賀会には100名以上の仲間が鹿児島に集まりました。同じ釜の飯を食った仲間の結束は驚くほどに強いですね。野村ホールディングス会長の古賀信行君も寮で同居していました。有意義な時間はアッと言う間に過ぎ、寮内は受験モードに。身内に東大法学部出身者がいたこともあり、仲間の多くが東大を目指すことから私も合格圏内の理科1類を目指していました。

 ところが1968年12月に全学連による東大安田講堂事件が勃発、数学担当の先生が泣きながら翌年の東大入試が中止されたと報告。我が耳を疑いました。受験科目の関係で取り敢えず地元の長崎大学を受験。合格はしたものの来年の受験を目指して予備校通いに上京したのですが、東京の街は全学連で溢れていました。来年の入試も不透明だと長崎に戻りました。

——どんな医学部時代でしたか。

 バリケード封鎖中で気が抜けたような学生生活でしたが、唯一充実感を得られたのがバスケット西日本医科学生体育大会の優勝でした。

 恩師の1人は熱帯医学研究所長の片峰大助先生です。大学紛争末期で入学式もなく、バリケード封鎖中に片峰先生から友人と共に研究室に呼び出され、「学問とは何か、研究とは何か」と薫陶(説教)を受けながら基礎医学教室で試験管洗いを手伝っていました。

 実は、教養部から医学部へ進級した後も学内の問題が絶えず、まともに授業を受けておらず、卒業式もボイコットしました。運よく、卒業は何とか出来ましたので、2週間後の医師国家試験を目指し徹夜で頑張りました。

——医師として心掛けてきた事は?

 昭和30年代テレビで見ていた「脳外科医ベン・ケーシー」の格好良さに憧れ、外科手術で人助けが出来れば大きな達成感が味わえると、バスケット部顧問の土屋凉一教授の主催する第二外科へ入局しました。研修医時代、肝臓外科に興味を持ち、国立がんセンターの研究生から外科レジデントとして6年間を過ごしました。当時、肝臓外科で高名な長谷川博先生から生血漿療法を中心とした周術期管理を、幕内雅敏先生には術中超音波検査を駆使した合理的な肝切除術の指導を受けました。私の学位論文も「肝大量切除後の肝補助療法として門脈血高酸素分圧化(動脈化)について」です。

 私が最も外科医として充実していた30代に須磨久善先生の冠動脈再建の第2のグラフト血管として「胃大網動脈」を用いた症例の報告にヒントを得て、胆管がんの外科治療で肝動脈合併切除後の再建動脈として胃大網動脈を使用し、国内外で多くの症例報告をしました。この方法は胆管がん癌の治療として国際的にも報告例がなく私の外科医としてのキャリアに大きく寄与しました。

 学位取得後の仕事場としてWHO(世界保健機関)の肝炎センターが併設されB、C型肝炎肝硬変症例の宝庫と言われる国立長崎中央病院を選びました。外科部長の古川正人先生には国内外での学会発表、論文作成、厚生省班研究の指導など外科臨床の「いろは」を御教授して頂きました。若輩外科医ながら500例以上の肝切除を中心とした外科手術が出来ました。古川正人先生は2人目の恩師ですね。

 その後、肝臓外科の延長として肝臓移植を勉強するために1988年にケンブリッジ大のCalne教授の手術を見学に行き、翌年には圧倒的な移植数を誇るピッツバーグ大のStarzl教授を訪問し、教授の下での長期留学の許可を得て帰国すると、突然バスケット部先輩の兼松隆之教授から琉球大学への赴任要請がありました。留学を決めていたこともあり、当然お断りの申し出をしましたが、 3回に及ぶ説得に屈し、1992年にイタリアのパドバで開催された学会で、Starzl教授のヒヒによる肝臓移植の講演を拝聴した後の7月1日に琉球大学第一外科助教授として赴任しました。この頃の琉球大学医学部は様々な問題を抱えていて大変な経験もしましたが、思い出としては沖縄内視鏡外科研究会、肝臓移植講演会の設立等があります。沖縄の医療に多少なりとも貢献出来たことは良かったと思っています。その後、民間病院では異例の第30回九州肝臓外科学会を主催しました。

 時は流れ、現在はミッドタウンクリニックグループ全体の管理者です。外科医最後の手術は2008年3月23日、内臓逆転患者(カルタゲナー症候群)の肝左葉切除でした。

——最後に一言を。

 前述のように、外科医としてのキャリアを育んだ臨床研究、手術は、ほとんど30代に経験しました。最近、外科医を志望される若い先生が少ないと聞き及んでいます。私達の時代と状況が異なるかもしれませんが、外科治療の達成感は他の分野に増して大きいことは間違いありません。これからも外科医を目指す先生方が増加することを祈っています。


インタビューを終えて
草野先生とは35年の付き合いになる。私の妻の大学時代の親友芳子さんが選んだ男性が草野先生だった。当時はバリバリの外科医だった。お陰で多くの知人の命を助けて頂いた。手術も無理、余命は半年と言われた知人が草野先生の手術で5年間生きることが出来た。終幕を飾ることが出来た知人は感謝の言葉を残し逝った。外科医冥利に尽きるとはこのことか。こんな話を多数持つが、それは草野先生の患者への接し方によるものだ。今は理事長として経営に重きがあるが、高名な方々の医療も担当し、外科医の人脈を駆使して外科手術が必要な患者を助けている。ミッドタウンクリニックが高い評価を受ける所以だ。


対談場所 「ルビージャックス ステーキハウス&バー
東京都港区六本木1-4-5  アークヒルズサウスタワー2F
03−5544−8222 11:00〜22:00(L.O.)  ※日・祝のみ21:00(L.O.)無休


 

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