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未来の会

第200回 患者のキモチ医師のココロ
聴かれても問題ないことだけを話す

第200回 患者のキモチ医師のココロ聴かれても問題ないことだけを話す

 本コラムのタイトルは『患者のキモチ医者のココロ』だが、読者の中には「今時そんなものはSNSを見れば一目瞭然」と思う人もいるのではないか。私自身も時々そう思う。

 たとえば、先日もSNSに多くのフォロワーを持つ有名医師が、こんな投稿をしていた。一部を抜粋して紹介しよう。

 「『看護師さんらしき人が、患者をさばくって言ってたけども、私たちは魚か何かなんですか??』見られている意識をもって気を付けた方が良いですね」

 この投稿に対しては、「正しい批判ではないのに職員に気をつける様にと言うと、働き辛い職場になるだけです」といった声もあった。一方である看護師は次のように述べている。「何を言ったかより、『どんな状態の人に届いたか』で意味が変わる気がします。①医療者はいつもの会話、②患者は不安や痛みの中、③同じ言葉でも刺さり方が変わる」。この意見は、「受け取り方のずれ」の問題としてまとめられていて、「なるほど」とうなずかされた。 

 ここであえて説明するまでもないが、「さばく」を漢字で書くと「捌く」。辞書によれば、「物事を要領よく処理する、料理で材料を切り分ける」という意味がある。「食べものや多くの仕事、人の集団などをうまいやり方で整理していく」、それが「さばく」なのだ。ただ「大売出しに並んだ大勢の人の列をさばく」とは言っても、「友だちが5人も遊びに来たのでさばいた」とはあまり言わない。対象が人の場合、「さばく」を使うのは基本的に匿名の人たちのひとかたまり、山や列といった集団の時に限られ、親しい人たちや名前を知っている人たちが相手の時は、この言葉を使わない。

患者は「ワンオブゼム」と思われたくない

 「言葉ひとつくらい」と思う読者もいるかもしれないが、ここには「医者(医療従事者)と患者」をめぐる本質的な問題が隠れている。

 度々がんを経験した作家が、エッセイなどにこういったことを書いている。

「『私は5年後も生きてられますか』と聞いたら、主治医が『5年生存率は63%です』とデータを示しながら答えた。私はそんな集団から割り出した数字を見たいのではない。ほかでもないこの私が生きているのか死んでいるのか、それを知りたいのだ」

 「集団の一員ではなく、名前のあるひとりの人間として見てほしい」という患者の言い分も良くわかる。もし、自分が受診を待っている時に医者が「あと10人さばかないと昼ごはんが食べられない」などと言っているのが聴こえてきたら、「迷惑がられ適当にあしわれている」と感じるだろう。

 医者にとっては数十名のその日の外来患者のひとり、いわゆるワンオブゼムにすぎなくても、それぞれは「今日の結果説明で天国か地獄が分かれるんだ」といった思いを抱えて受診しているかもしれない。もちろん、だからといって本当の意味でひとりひとりに心を寄り添わせ、匿名の存在ではなくて「名前のあるひとりの人」としてその人生も含めて症状や検査結果に対峙する、ということはどんな超人ドクターにもできない。それでも私が現在、勤務しているへき地診療所は受診者がみな地元の人で名前と顔や生活が容易に結び付くので、「午前はあと3人」ではなくて「午前はあとハルさん、ヨネさん、ミノルさん」と認識しやすい。

 しかし、都会の医療機関ではそうはいかないだろう。だとしても、可能なかぎりは「患者集団」とか「患者の山」ではなくて、「ひとりひとり」として患者に向き合う。これが基本だろう。それができていれば、医療現場で「残りの受診者、がんばって3時までにさばくか」といった言葉が出てくるはずもない。

 ところが、そうした「患者を名前のあるひとりの人間」として見る医療には、深刻な問題も潜む。

 それは、患者個人にあまりに近寄りすぎると、時にはベストな治療ができなくなる、ということだ。いくら寄り添ったとしても良い治療ができなければ、まさに本末転倒になってしまう。

 医者は、エビデンスに基づいて作成されたガイドラインによって薬や手技の有効性を検討し、目の前の患者に対して治療を行ったり中止したりする。そこにいわゆる“私情”が入ったら、客観的な判断ができなくなり、時にはミスをすることもあるだろう。

 よく「医者は、目の前の患者が母親やわが子だったら、と家族に置き換えながら診療にあたるべき」とも言われるが、私はそうは思わない。そんなことをしたら、採血ひとつするにも「痛い思いをさせるのはかわいそうだ」とためらい、オーダーを出せなくなるのではないか。かつて「私は実の父親の胃がんの手術をした」という医師の手記を読んだこともあるが、手術室の台に横たわる家族の体にメスを入れ、臓器からがんを切除するといった手順を正確にこなしていくその冷静さに驚かされるばかりだった。

もう一度、シンプルなルールに立ち返ろう

 では、客観性を失わないようにしつつ、患者の集まりを「匿名の人たちの山」などと突き放さないよう、うまく意思疎通を図るにはどうすればよいのだろう。

 私自身は、「込み入った治療の内容など医学的なことは別として、本人に向かって言えないことは看護師や医師同士でも話さない」というのが基本ではないか、と考えている。それは「だとしたら本人にも同僚同士でも何も言わないのが得策」ということではない。患者自身には丁寧に話す。ただ、そこでは話せないことがあったとしても、診療の内容に関係ないのなら安易にバックヤードで口にすべきではないのだ。

 たとえば、「このCTで見ると悪性の可能性が限りなく高いから、高次医療機関でさらなる検査を進めてもらおう」という話はカンファレンスで行ったとしても、本人には悪性も含めたいくつかの疾患名を列記して、「この病院に検査に行きましょう」と勧める。それはうそやごまかしではなく、配慮の範囲内であろう。

 一方で、「まいっちゃったよ、あの外国人の患者。日本語がよくわからないんだよ」「えー、母国に帰ってほしいよ」といった会話を本人に聴かせることはできるだろうか。いくら神経が図太い人でもできないはずだ。だとしたら、医療従事者間で話すべきでもないし、もちろん匿名でSNSに投稿することも控えた方がよい。

 そう考えれば、冒頭で紹介した「さばく」も同じだということがわかる。患者に面と向かって、「採血が順調に終わって、うまくさばけそうだからよかった」などとは言えないと思う。だとしたら、やはりバックヤードでもそんなことを言うべきではないのだ。

 これからはおそらく、医療従事者が望むと望まざるとに関係なく、患者がスマホアプリなどで気軽に自分のカルテを閲覧できるようなシステムが普及していくはずだ。患者はそこで「本当は知りたくなかった自分の情報」も見ることになるわけだが、患者側がそれを承知で自分のカルテを見ようと決意しているのに、医者が相変わらず診察室とバックヤードやエレベーター、あるいはSNSでは患者を傷つけるようなグチを垂れ流す、というのは認識のズレがあまりに大きすぎる。

 口にするのは、本人に聴かれても良いことだけ。シンプルなこのルールをもう一度、確認しておきたい。

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