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未来の会

第35回 私と医療 ゲスト 相澤 孝夫 一般社団法人日本病院会 会長

第35回 私と医療 ゲスト 相澤 孝夫 一般社団法人日本病院会 会長
GUEST DATA:相澤 孝夫(あいざわ・たかお)①生年月日:1947年5月25日 ②出身地:長野県 ③感動した本:『無心』(松原哲明)、『「貞観政要」に学ぶ』(寺尾善雄)④恩師:古田精市先生(信州大学第2内科教授) ⑤好きな言葉:「上善如水」「水五訓」「柳緑花紅」⑥幼少時代の夢:蒸気機関車の運転士 ⑦将来実現したい事:自然も住まう人の心も美しく、安心して住み続ける事の出来る社会・地域を松本地方に創り、日本中・世界中の国、人に知って貰う事
幼き日に見た医療の原風景

太平洋戦争が終焉を迎えた直後、長野県松本市に医者の家系の長男として生まれました。松本市はヴァイオリニストの鈴木鎮一氏が創始したスズキ・メソードの発祥の地で、母の教えで幼児の頃からヴァイオリン教室に通いました。自宅の近くに蒸気機関車の操車場が在り、操縦士に憧れながら飽きもせずに眺めていたものです。体を動かす事も好きだった私は、叔父から野球を教わる時間が一番の楽しみでした。

祖父が1908年に開業した相澤病院(開業当時は相澤医院)は自宅を兼ね、毎日の様にリアカーに乗せられた怪我人や麻薬中毒の患者さんが担ぎ込まれて来るのを見て育ちました。父は往診に行く時、必ず私をオートバイの後ろに乗せて行きました。医者とは何たるものかを教えたかったのかも知れません。病気を治すだけが医者ではない、家庭や患者さんが背負っているものを考えながら対応しなければならないのだと。父は村の人と和やかに会話を交わし、患者さんの家族からはいつも感謝されていました。それは決して美しい記憶ばかりではありません。人々は三軒長屋に蚤や虱が飛び交う様な貧しい住居に暮らし、治療費の代わりに大根や人参を貰って帰る日も有りました。それが私と医療の原風景です。

周囲の期待に応えるべく医学部へ進学

小学校低学年の頃は病弱で、障害を抱えた子らと一緒に養護学級に入っていました。正義感が強く喧嘩早いところが有り、クラスメイトを虐める者がいれば懲らしめるのが私の役目になりました。松本駅前の病院が手狭になり、小学4年の時に松本市内の温泉街に転居しました。信州大学の隣に建つ信州大学教育学部附属松本小学校に転校し、中学は内部進学でした。その頃になると体は大分丈夫になり、1年間程バスケットボールクラブに所属しました。その後、音楽教諭から合唱クラブに勧誘され、東日本中学校合唱コンクールで長野県の代表になり、東日本で3位に入賞した事が良き思い出です。高校受験に向けて志望校を松本深志高校に定めると、周囲からの激励の圧から逃れる為に学校を休みがちになり、大自然の中に身を置いて過ごす様になりました。心配した担任が自宅を訪問し、そうとは知らない父母に不登校が発覚。父に怒られたのは、生涯でその時の1回だけです。

医師になれと強要された事は有りません。しかし、生まれ育った環境や周りの期待を思うと医者になる事こそ自分の使命だと感じ、父と同じ東京慈恵会医科大学に進学しました。

父の病気で卒後間もなく長野松本へ帰郷

医学部生時代は慈恵の創設者である高木兼寛先生の孫と親しくなり、高木君を含む同級生グループと全国を旅した事が偲ばれます。ボウリングや野球にも夢中になりましたが、勉学にも励みました。特に父の中学時代の同級生で腎臓専門の上田泰先生や糖尿病専門の阿部正和先生等には熱心に指導を頂きました。阿部先生の「医療をやろうと思ったら一生勉強だ」という言葉は、今でも肝に銘じています。卒業する時には慈恵に残るよう誘いを頂きましたが、丁度その時分に実家の父が特発性心膜炎で信州大学医学部附属病院に入院し、松本に帰郷する事になりました。

父が入院している間、相澤病院は信州大学第2内科の先生方に助けて頂きました。卒後間もなかった私は、当時助教授だった古田精市先生に医者としての基本から教わり、博士号を取得する迄育てて頂いた事には心から感謝しています。古田先生には野球でもお世話になりました。学生時代にピッチャーをしていた私の得意球は、垂直方向に曲がる「縦スライダー」。球速も有り、素人に打たれた事は滅多に有りません。その腕を買われ、大学対抗の試合の度に声を掛けて頂きました。只、悔やまれるのは長男が生まれた日、新潟大学との試合の最中に長男誕生の報せが入ると、祝杯と称して翌朝まで足止めを食らい、妻から散々叱られた事です。その長男も野球をこよなく愛し、医者となって相澤病院を背負う立場になりました。

文鎮型組織の全部署を統括するパワフル経営

私の経営者としての矜持は、大事な局面で自分自身の信念を曲げない事です。職員からは「先生はぶれないので安心して仕事が出来ます」と言われます。私は経営も医療も、水に例える事が出来ると思っています。水は低い方へと向かうのが自然の流れです。それと同じ様に、人も進むべき方へと進めば良いのです。人々が何を大切にしているのかを考えれば、向かうべき方向は自然と見えて来るものです。水の中には濁った水も有り、蒸発すれば雲になり、雨となります。形は変われど、最後には清らかな水となると信じて突き進んで来たつもりです。

相澤病院の経営スタイルは、所謂「文鎮型組織」です。病院長の直下に各部門を並列して配置し、3カ月に1度、私が各部門長と直に面談をしていました。こうした組織は、指示が行き渡るのが速く、現場の声が聞こえるのも速いのが利点ですが、部門が100近くにも及ぶと相当な負担になります。2017年に日本病院会の会長に就任してからは、病院を空ける日が増え、これ迄の体制を維持する事が難しくなりました。今は病院長を松本出身の田内克典先生に託し、副理事長の長男と共に、試行錯誤をしながら新たな形へと変わりつつあるところです。

地域医療の「松本モデル」構築へ

地域医療には、限界点というものが有ります。患者数がそれを下回ると経営は赤字になりますので、人口密度が減少している地域では工夫が必要です。その1つが遠隔診療です。例えば地域に訪問看護ステーションを設置して、看護師が遠隔地の医師に情報を共有し、必要な場合に医師を派遣するという方法です。更に地域医療に於いて重要な事は、緊急搬送が必要になった場合に、要件の揃った施設にタイムリーに搬送する仕組みを整備する事です。

一方で、患者さんや高齢者が過疎地に住み続ける事が本当に必要なのかも考えなければならない時が来るかも知れません。日本の医療は地方分権ですから、先ずは我々が松本にモデルケースを作り、他の都道府県、市町村へと広げて行きたいと考えています。

人々にとって最も幸せな事は、安心して暮らせる場所が在る事です。その幸福な人生の一端を担うのが社会インフラとしての医療です。「全ては患者の為に」を合言葉に、皆で知恵を絞りながら、一番良い医療の形を作って行きたいと思います。

インタビューを終えて

年初の四病院団体協議会合同の新年会——。壇上に立った相澤先生は、突然声を張り上げた。「厚労省任せではダメなんです!」その瞬間、会場はどよめき、続いて万雷の拍手喝采が巻き起こった。穏やかな笑顔が印象的な相澤先生の、まさかの絶叫に誰もが胸を打たれた。「頼りになる医師」正にその言葉がぴったりだ。松本の地で患者を分け隔てなく救った祖父は、正に「赤ひげ」だった。困窮する者にも手を差し伸べ見捨てなかった祖父の背中を見て育った相澤少年が、やがて「頼りになる医師」と呼ばれるようになったのは運命かも知れない。彼の手が救ったのは、病める人々だけではない。未来ある若きアスリートにも光を当てた。その結果、日本に数多くの金メダルがもたらされた。松本の一医師が生み出した奇跡が、国中にパワーを届けたのだ。(OJ)


牛サーロインのグリエ
ドフィノワのキューブ、ヴァンジョーヌマーブル仕立て
フレンチの巨匠、三國清三シェフ監修のグランビストロ。ザ・プレミアム・モルツの深いコクと旨味と好相性の皿は、国産牛サーロインのジューシーな肉質とグリエの香ばしさが魅力の逸品。

Hills House Dining33
東京都港区麻布台1-3-1 麻布台ヒルズ森JPタワー33F
03-4232-5801
11:00〜15:00(L.O.14:00)
18:00〜23:00(L.O.22:00)
無休
https://dining33-hillshouse.jp/
※営業日・時間に変更がある場合がございます。

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