杉下 智彦(すぎした•ともひこ)
屋久島尾之間診療所 院長
東京女子医科大学客員教授
留学先:ハーバード大学公衆衛生大学院 (2000年9月〜01年7月)、ロンドン大学アジア・アフリカ研究大学院(01年9月〜02年7月)、グレートレイク大学キスム校(11年1月〜16年12月)
新世界を開いてくれた「留学」という経験
私はこれまでの人生において、3度、海外の大学院に留学した。そして、それぞれの大学院において、後の人生を決定するようなカリスマと出会った。その出会いは偶然に起こり、身震いするほどの出来事であり、結びつきは講義やそれ以外の時間を通して育まれた。やがて、留学生活のすべてを占めるようになり、卒業後も続く長い交流を通して、私の人生の一部となった。海外留学するということは、私にとって知識や技能、資格の習得もさることながら、これまでに出会ったことのない師や仲間と出会い、全く異なる新世界を歩み始める事であると思っている。
カリスマとの出会い
2000年、私はそれまで勤めていた聖路加国際病院胸部外科を退職して、米国ボストンのハーバード公衆衛生大学院に留学した。その前、1995〜98年までの3年間、青年海外協力隊に参加し、アフリカのマラウイ共和国に外科医として派遣されていた。国立ゾンバ中央病院で行った手術は2年半で3000例を超え、多くの患者さんがHIV(エイズ)やマラリアで亡くなるのを目の当たりにした。マラウイ最前線の病院での経験から、「予防は治療に勝る」と確信するに至った。いつか海外で公衆衛生学を学びたいと願っていた矢先、JICA海外長期研修プログラムから奨学金を頂く機会を得た。これで念願のグローバルヘルス分野における第一歩を歩み始めることができると胸躍らせた。
しかしハーバード公衆衛生大学院に入学後、系統的に講義が進む中で、マラウイで目の前で起こっていた出来事と、数値化された罹患状況や健康指標などの公衆衛生学的なアプローチに大きな乖離があることが気になってきた。海外留学のモチベーションを失いかけたある日、級友が「医学部のポール・ファーマー先生の講義はすごい」と教えてくれた。調べてみると感染症と医療人類学の2つの博士号を持っているハーバード医学部で最も人気のある教授らしい。学生時代からハイチでHIV患者さんを支援する活動をしており、教授になっても毎週のようにハイチに診察に通っていると聞いて、とても親近感を覚えた。
講義はハーバード・メディカルスクールで行われた。大きな階段教室には200人を超える聴講者であふれていた。聞くと雑誌ニューヨーカーで「現代のシュバイツアー」と特集されたとのこと。最前列には学生ファンがプラカードを持って講義を待ち構え、まるでコンサート会場に来たかのような雰囲気であった。
突然、部屋の明かりが消され、ハイチで診療するファーマー先生の白黒ポートレイト写真が映し出された。次には、病院に担架で運ばれてきた黒人の少年の姿、疲れ果てた看護師さんの横顔、と無言のフォトストーリーが展開された。徐々にスポットライトが明るくなり、壇上でフランス語の詩を朗読するファーマー先生の姿が浮かび上がってきた。あまりに常識を突き抜けた講義の演出。私にとって、カリスマとの衝撃的な出会いだった。
唯一無二のパートナーシップの誕生
講義はハイチでのHIVエイズ診療の経験から始まり、感染症が生み出す構造的な社会暴力(structural violence)について、彼の強みである歴史、文化、社会、政治を俯瞰する壮大なスケールの講義だった。現場経験の迫力と緻密な学問が融合した独自の世界観に圧倒された。若くしてハーバード正教授となった渾身の講義であった。
講義の最後、「私の授業を本気で受講したい人は手を挙げて」と問いかけがあった。覚悟を決めた私は、すかさず手を挙げた。「あなたのことを教えて下さい」と問われたので、「マラウイで多くのエイズ患者さんを手術し、看取りました。しかし世界から感染症を無くすためには何から始めれば良いのでしょうか」と答えると、「I need you!!」と指を差された。生涯忘れることのないパートナーシップが生まれた瞬間である。
夕方、ファーマー先生の部屋を訪ねた。そこには准教授のジム・キム先生を始め、NPOのPartners In Health (PIH)の人たちがいた。ハイチやペルー、アフリカの最前線で奮闘している人たち。私もマラウイの話を存分にすることができた。公衆衛生大学院では経験することのなかった安堵がここにはあった。ボストンに来て初めて自分の居場所ができたような気がした。
留学によってもたらされた人生の財産
その後、ファーマー先生から、様々な学問の領域の手ほどきを受け、海外で学ぶことの奥深さを知った。当時、指導されて書いた小論文は、当時の米国教育委員会の目に留まり、全米のベストエッセイに選ばれた。ファーマー先生を通して、ノーベル経済賞のアマルティア・セン先生、ミレニアム開発目標を提唱したジェフリー・サックス先生、医療人類学の大家アーサー・クラインマン先生など、世界を代表する知性に直接触れることができたのは、その後の人生において大きな財産となった。
公衆衛生大学院も卒業が見えてきた頃、アフリカの伝統的な価値観と現代医療の接点を本気で勉強するのであれば、ロンドン大学大学院のアジア・アフリカ研究大学院(The School of Oriental and African Studies, SOAS)の医療人類学講座で学ぶように勧められた。推薦状をいただき、アフリカの地域研究を行うためにロンドンに渡った。アフリカの呪い(妖術)にテーマを絞り、毎日早朝から夜遅くまで図書館にこもって古い本を読み漁った。ファーマー先生の示した学問の道に心躍り、私にとって人生で最も学問に没頭した1年間となった。
2002年ブルーネル大学で行われた第3回国際社会人類学学会の事務局を手伝うことになり、恩師ファーマー先生を基調講演に招くことになった。ロンドンでの再会の胸躍る気持ちは昨日のように想い出される。その後、バンコクの国際会議で、世界銀行の総裁となったキム先生と3人で遅くまで語り明かしたこともあった。
10年後、活動拠点をルワンダへ移したファーマー先生と、アフリカで仕事をする機会が多くなり、共通の知人も増えてきた。様々な形でファーマー先生の後を追う私を常に応援していただき、私が大学の教授になった時に一番喜んでくれたのがファーマー先生だった。
しかし、悲劇は突然やってきた。アフリカでGlobal Surgeryのプログラムを一緒に立ち上げようと話していた矢先の22年2月21日。ファーマー先生は活動先のルワンダで息を引き取った。62歳という若さであった。「いつかファーマー先生のようになりたい」と憧れ、後を追い続けて来たカリスマは、私にとって永遠の星となってしまった。
彼は著書の中でこう語っている。
“With rare exceptions, all of your most important achievements on this planet will come from working with others—or, in a word, partnership.”
「この地球上で最も重要な業績は、稀な例外を除いて、すべて他者との協働、つまりパートナーシップから生まれる」。海外へ留学する最大の魅力。それはカリスマと言うべき恩師に出会い、そして人生を共に歩むパートナーシップを築くことだと信じている。
LEAVE A REPLY