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第10回私と医療 ゲスト吉村 泰典

第10回私と医療 ゲスト吉村 泰典
吉村 泰典(よしむら・やすのり)①生年月日:1949年1月26日 ②出身地:岐阜県岐阜市  ③感動した本:「学問のすゝめ」福沢諭吉、「二十一世紀に生きる君たちへ」司馬遼太郎、「緒方洪庵と適塾」梅渓昇④恩師:ジョンズ・ホプキンズ大学医学部産婦人科主任教授 エドワード・E・ワラック先生 ⑤好きな言葉:『人生須らく他動的』、『志有る者は事竟に成る』、『置かれた場所で咲きなさい』⑥幼少時代の夢:医師 ⑦将来実現したい事:生まれ変わったら、最高裁判所の判事になりたい。
幼年時代

 昭和24年1月26日、岐阜の生まれです。父親は電信電話公社の技術者で、母は当時としては大変珍しいキャリアウーマンで洋裁学校を経営していました。共働きの家庭でしたので、小学校まで母親の実家で祖母に育てられました。私が何をしても褒めてくれる祖母で、褒めて育てる事の重要性を学びました。成績は良かったと思いますね。放課後に書道や絵画の教室にも通っていました。高校は地元の進学校の県立岐阜高校です。多くは名古屋大に進学しますが、東大や京大、阪大にも毎年多数合格しています。両親は国立大を希望していましたが、合格出来ず慶應に入学しました。名門医学部ですが、心躍る感覚はありませんでした。

医学部生時代

 1年生の終わりに医学部の同級生と大恋愛。彼女の母親らは猛反対で、彼女を札幌医科大学へ転籍させようとするほどでした。しかし、2人は初志貫徹の勢いでした。「そこまで決心が堅いなら逆に早く結婚しなさい」と許され、私が24歳、彼女が23歳で学生結婚しました。安保騒動の最中で大学はロックアウト状態でしたので麻雀と学生運動に明け暮れ、成績は友人と最下位を競う程でした。3年への進級時に留年の危機を救ってくれたのが物理学の金澤教授の「私が退官するにあたり、立つ鳥跡を濁さずとしたいので、彼ら2人を進級させたい」の一言でした。以後、勉強に力を入れると成績も急上昇し、学友から「吉村の華麗なる変身」と言われました。結婚5年目に長女が生まれました。妻から「お産はあなたにお願いします」と言われ、医師3年目で大役を果たしました。子供を取り上げた時には本当に感激し、これが娘との長い付き合いの始まりでした。

人生訓は「人生須く他動的」「置かれた場所で咲きなさい」

 昭和50年に卒業。慶應の研修医として医師のキャリアがスタート。以降、ずっと上司である教授の言葉に従い導かれ、キャリアを積んで来ました。人生の中で、自分の生き方を決断したのはたった3回だけ。1回は結婚で成功、残りの2回は失敗でした。浜松日赤病院への赴任も、米国留学も教授の指示。実はこの米国留学話だけは断りたかった。今だから言えますが、その理由は「日本食以外が食べられない」です。今日のお店が和食の名店で嬉しいです(笑)。留学時代は自炊で日本食を作り、料理にも目覚めました。1年後に、当時藤田医科大にいた妻も子供を連れて来ました。親子3人の米国生活は貴重な1年でした。留学先のジョンズ・ホプキンズ大学医学部産婦人科主任のEdward・E・Wallach教授に、臨床医としての医学研究の重要性と英論文作成を学び、徹底的に鍛えられました。中でも、ネガティブデータを論文にいかに残すかが重要だと学び、3年半の留学中に20篇以上の論文を書き上げました。教授の愛情ある指導のお陰で、私自身に変化が起き、研究に向き合う姿勢が大きく変わりました。私の恩師です。

 帰国後は、これまた上司の飯塚理八教授の命で、妻のいる藤田医科大学の講師を務め、その後、望まない杏林大学助教授への指示があり再び単身赴任の始まりです。4年後に慶應の教授選に出る話があり快諾したのですが、杏林大学の都合で応募すら出来ず、1年後の再度の教授選を経て母校の教授として戻りました。46歳の時です。教授就任後の初仕事は慶應義塾大学病院の安全対策担当の副院長の職でした。まだ「医療安全」の言葉も聞かれなかった時代です。その後、日本産科婦人科学会に理事として参画。直ぐに常務理事になれたのは初代理事長だった東大の武谷雄二先生の御推薦からでした。その2年後、武谷理事長退任にあたり私を理事長に推挙した事から、古参の理事がそれだけは罷り成らんとなり、理事長選挙になりました。その選挙で日本産科婦人科学会第2代目の理事長になる事が出来ました。この頃の産婦人科医療は妊婦のたらい回し事件や都立墨東病院事件等、大変厳しい状況にありました。理事長として解決に向け、この窮状を当時の石原慎太郎都知事や舛添要一厚生労働大臣に直訴。直ぐさま、都立病院の給与等の待遇改善や分娩手当の導入が決まりました。それを間近で見て「やはり世の中を劇的に変える事が出来るのは政治だ」と政治に興味が湧き、教授任期は残り3年でしたが、参議院議員への出馬を真剣に考えました。学内で「吉村先生が選挙に出る」という噂が立ち参りました。結局、日本医師会の推薦は羽生田先生に落ち着き、その年の2013年に安倍政権の内閣官房参与(少子化対策・子育て支援担当)を拝命。やり甲斐のあるポストでしたので7年半も頑張りました。

長嶋茂雄さんとの逸話

 私は中日ファンですが、長嶋茂雄さんが一番好きです。教え子の結婚式の主賓が長嶋さんでした。主賓の挨拶がなんと40分。普通だったら大顰蹙なのでしょうが、ゲストは皆、大喜びでした。途中で「長いですか?」と聞くと皆が拍手で返す。また長い話が続き、その繰り返しが3回程あり、終わった時には大拍手。新婦の父親の土井正三さん(元巨人)が涙を流していましたね。長嶋さんはわざわざ仲人の私の席に来て挨拶をしてくれ、全員の写真撮影に応じる等、とにかく気配りの方でした。やはり特別な人ですね。 

最後に

 原発事故後の福島県では、東日本大震災で構築した産婦人科医師派遣の体制が活かされ、福島県下の基幹4病院に全国の大学から4名を交代で派遣する事が出来ました。私は内閣官房参与として少子化大臣の森まさ子参議員や内堀雅雄福島県知事と緊密に連絡を取り合いました。その後、内堀知事の要請で、福島県立医科大学の中に「ふくしま子ども・女性医療支援センター」を立ち上げ、現在も福島県立医大の副学長として関わっています。

 私の人生訓は「人生須く(すべからく)他動的」、「置かれた場所で咲きなさい」です。前者は私の造語、後者はカトリックシスター渡辺和子さんのお言葉です。生まれ変わったら何になりたいかの質問には東大法学部を出て最高裁判事になりたいと答えます。生殖について法律に永く関与してきたので。最高裁の判例は永遠に残る、それが理由です。

 私をここまで育ててくれた慶應義塾大学には感謝しかありません。そして栄えある福澤賞も頂きました。これは私の誉れです。日本の少子化対策は待ったなしです。日本の周産期医療の水準が世界でもトップレベルにありながら少子化では残念です。今から対策を強化しないと国の仕組みが成立しません。


分とく山

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