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未来の会

第75回 医師が患者になって見えた事 42歳で脊髄小脳変性症を発症

第75回 医師が患者になって見えた事 42歳で脊髄小脳変性症を発症

日本赤十字社和歌山医療センター
循環器内科 嘱託医師
岡村 英夫/㊤

岡村 英夫(おかむら・ひでお)1974年和歌山県生まれ。98年広島大学医学部卒業。2006年国立循環器病研究センター医員。15年米国メイヨー・クリニック留学。国立病院機構和歌山病院を経て20年から現職。

循環器診療の総本山である国立循環器病研究センター病院(大阪府吹田市)で最先端の治療を手掛け、同僚や患者の信頼を得て充実した毎日だった。留学から帰国後、42歳の働き盛りで突然の神経難病に襲われた。

講演中にろれつが回らず難病を疑う

岡村は不整脈を専門に据えており、従来の植え込み型除細動器(ICD)に加え、着用型自動除細動器(WCD)や完全皮下植え込み型除細動器(S-ICD)といった新しいデバイスにより重症化や心不全を予防する治療を行っていた。WCDはICDへの橋渡しとなるものだ。S-ICDは経静脈リード(電極)抜去のリスクを回避でき、2016年から日本でも使用可能になった。

15年に米国メイヨー・クリニックに留学し16年2月に帰国した。平日は病院で診療し、週末は講演会で全国各地を飛び回る日々。10月2日日曜日は北海道で医師向け講演会があった。土曜から現地入りし、夜は友人と酒席を楽しんだ。翌日の講演は30分を予定していたが、後半に異変を感じた。急にろれつが回らず、言葉を発しにくくなった。「昨晩飲み過ぎたか。まずいぞ」。もりだくさんの講演内容は早口でこなさなくてはならなかったが、誰にも気が付かれることなく事なきを得た。

ところが、その後も講演中、同じようなことが2、3度続けて起きた。階段を上がる際に立ちくらみもした。岡村は内科医だが、ICD植え込みなどの手術を行う。前のように糸結びができなくなったと感じた。カラオケも下手になった。試しに毎日飲んでいたビールやウイスキーをキッパリやめてみたが、何ら変化はなく、飲酒が原因でないと判断した。神経内科の病気ではないか。脳や中枢神経は難治性疾患が多いという偏見から、心中穏やかでなかった。

後から振り返ると、異常の兆しはあった。留学中の15年12月、大学近くの池でスケートをした際に足がもつれた。一方、趣味のマラソンは問題なく走れた。タイムを競うのではなくランを楽しんでおり、帰国直後の16年2月の東京マラソンではフルマラソンを完走。11月には故郷の和歌浦ベイマラソンでもハーフを完走した。

12月、職場の忘年会で司会に指名された。後輩に「ろれつ回ってないですよ」と、冗談めかして声を掛けられたことが、重く心に響いていた。

その月、生まれて初めて脳ドックを受けた。「脳腫瘍でも見つかってくれればいい」と念じていた。腫瘍なら切除して根治も可能だからだ。しかし脳内に腫瘍の影はなく、少し脳が萎縮しているので経過観察が必要と告げられた。家族に多系統萎縮症の疑いだろうと伝えると、腫瘍でないことに安堵したようだったが、岡村は悪い知らせと受け止めた。

年明け1月、MRI画像を携え、勤務先の脳神経専門医に紹介された総合病院の脳神経内科を受診すると、「脊髄小脳変性症」という診断が下された。進行は緩徐だが、いずれは歩くことも話すこともできなくなる。確たる治療法はない。神経難病として有名な疾患は、半ば予想し覚悟していた通りだった。しかしショックは大きく、考える時間が欲しかった。ふらふらと1人で映画館に向かい、『海賊とよばれた男』を見たが、ストーリーは記憶にない。内科医をしている姉にメールしたが、中身は全く覚えていない。

岡村は3歳上の姉と2人きょうだいで、1974年に和歌山市で生を受けた。父は自宅で歯科医院を営んでいた。自分が後を継ぐものと考えていたが、高校時代に受診していた眼科の医師に憧れ、医学部を志した。父方の祖父と叔父も医師だった。岡村は県下一の進学校である智辯和歌山に通っており、現役で広島大学医学部に合格した。生来丈夫で大病の経験はないが、小学校時代に原因不明の血尿で安静を言い渡されたことがある。それ以来、泌尿器科は何となく身近な診療科で、将来の進路として考えたこともある。医学部で心電図を読み解く面白さに夢中になり、循環器内科に進もうと思った。薬だけでなくデバイスを用いるなど、治療の選択肢も広がっていた。

98年に医学部を卒業すると母校での初期研修を経て、2000年から国立循環器病研究センターでレジデントとして3年、専門修練医2年、計5年の修行を積んだ。地元の日本赤十字社和歌山医療センターを経て、06年から国循に医員として戻り、心臓血管内科で不整脈診療の最前線に立った。留学の機会も得て順風満帆だった。

職場を移って循環器内科医を続ける

脊髄小脳変性症の診断を受けたことで、人生のどん底に突き落とされたと思った。そう遠くない将来、医師はおろか、日常生活さえ自立して送れなくなる。講演会の予定がいくつも入っていた。主治医によれば、10年は働けるという話だが、手術は続けられないだろう。できるだけ早く、元気なうちに今の職場を去らなくてはならない。自分がやるべきことを整理した。

翌日出勤すると、診断内容を上司に告げ、そこから当直を外してもらった。1月は手術の予定も埋まっていたが、いつも通り慎重に取り組んだ。岡村はしばらく大阪で単身赴任をしていたが、家族や両親が暮らす和歌山に戻ろうと思った。異動先として、国立病院機構和歌山病院(美浜町)を打診され、2月に家族と共に訪ねた。県内と言っても、和歌山市内の自宅からは車で1時間弱かかる距離だ。最先端の研究病院と比べれば、施設も診療内容も見劣りするのは否めない。それでも医師として働けることは幸いで、手術はできなくても、問診や聴診などで循環器内科医を続けられそうだと、安堵する気持ちが大きかった。

進行を緩やかにする薬として、3月から主治医にタルチレリン水和物(一般名)を処方された。初めて服用した日、いつもと違って階段を軽快に降りられた。「車のエンジンオイルを交換したようだ。多分効いているのだろう」。その後は、はっきりした効果が見えないままだが、今も飲み続けている。

母にも、確定診断を受けた17年1月に病名を告げた。岡村を慮り、「きっと治る。奇跡を信じるんや」と励ましてくれたが、「いい加減なこと言わないで」と反発した。後で、心の余裕がなかったと猛省した。父親の深刻な病を知らされると、小学生の娘は、脊髄小脳変性症の少女が主人公の『1リットルの涙』というドラマを見て大泣きした。中学生の息子は無関心を装っているようだった。

周囲に支えられ国循で勤務を続けてきたが、いよいよ去る日が来た。6月に後輩たちが送別会を企画してくれた。広島大出身の岡村は院内の広島県人会の世話役をしていたことから、広島東洋カープのユニホームを贈られた。背番号「12」、スタッフとして12年勤め上げた証だ。2年後に移転が予定されている新病院に自分の居場所はない。新天地での循環器診療に力を注ごう。同世代の医師たちの昇進をうらやむ気持ちはもうなかった。(敬称略)

〈聞き手•構成〉ジャーナリスト:塚嵜 朝子 

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